愛想モルフィズム

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数学を学ぶことで人は寛容になれる(はず)という話

数学を学ぶ理由は最も多く議論が交わされてきた対象の一つである。中学高校時代に半ば強制的に数学を勉強させられ、こんなことが将来何の役に立つのかと疑問に思った人は決して少なくないと思われる。教師や大学教員は声高に「数学の知識は身の回りに様々なことに応用されている」と叫ぶが、そんなことを任意の人生の大切な時間を浪費する理由にしてはならない。

数学を学習する理由の一つは論理的思考力の養成であるが、こんなことは今までも多く主張されてきたことであるので、私が今更ここでわざわざブログに書くことはしない。私が言いたいのは数学を学習することで他人に寛容になる精神を育めるということである。

数学が他の学問とはっきりと違うことは真の意味で正解が一つしか無いことである。ここで様々な反例について考察する。

世界史や地理と言った社会科学も正解は一つしか無いと考えることができるかもしれないが、それらの学問における正解とは厳密には正解ではなく正解とされているもののことである。人類がその歴史の中で正解に近そうなものに後から名前を付けて正解として保存している、言わば人間社会の恣意的な部分がその多くを占めている。一方で数学は基本的に正しいとされているものは(現代の一般的な数学においては)ZFC公理系のみであり、それと一階述語論理の重なり合った推論を用いて数学は記述されている。つまり、そのルールに違反しているものはすべて一様に間違いであり、そこに人間の恣意的な部分が入り込む余地は全く残されていない。「正しそう」「多くの人に支持されている」などといったものは厳密には数学には存在せず、そこには「正しい」と「間違い」しかない。

そういった二元的かつ形式的な存在に依って正確性が担保されているいくつかの自然科学もまた、正しさは一通りしかないように思われる。しかしながら自然科学は倫理学や哲学といったものと深く関連性を持ち、必ずしも人間の恣意的な部分が除外されているとは言い難い。いわゆる優生思想や人体実験、あるいは核兵器など、純粋な科学だけでは語ることのできない分野は枚挙に暇がない。私はそれらのそういった状況が悪いということを言いたいわけではないことをここに注意しておく。

学問に限らずに話を広げると、ルールが画一されているという点ではスポーツ競技を思い浮かべることがあるかもしれない。例えばサッカーや野球は全世界でほとんど共通のルールで争われている。しかしながらその勝ち方やゲームの進め方はチームや各選手それぞれである。パスサッカー、カウンター狙い、機動力野球に重量級打線。そのどれもがスポーツのエンターテインメント性を高め、そういった差異がある状態こそがスポーツのコンテンツパワーを向上させている。麻雀に関してはルールさえ画一されていない上に絶対的な正しさを知ることは物理的に不可能である。

反例が過ぎた。要するにそれらの「正しさが一通りではない」事象たちに対して数学は正しさが常に唯一つに定まるという特異性を持っている。そして、このことをメタ的に理解することこそが最も重要なのである。「数学には正しさが一つしか無い」ことを理解できれば、数学ではないこの現実の世界には正しさが複数存在しうることを認知することができ、その結果人それぞれに正しさがあることを理解し、他者に対して寛容な精神を得ることができるのである。

「議論」とは何のために行うか、ということについてもここで書いておく。私は議論とはお互いに正義の定義を理解し合うために行うと考えている。二者以上の関係性において議論が発生する理由は表層での意見の対立の存在による。今、A および B の間で議論が発生していると仮定する。Aの思考フローは

 J_A \Rightarrow P_1 \Rightarrow \cdots \Rightarrow P_n

というものであるとする。これはAの持つ正義である  J_A から端を欲し推論を重ね、最終的に  P_n という意見を持っている、という意味である。Bに対しても同様に

 J_B \Rightarrow Q_1 \Rightarrow \cdots \Rightarrow Q_m

というように考える。今、議論が発生しているのは  P_n \wedge Q_m = \varnothing となるからである。これを解決する方法は、推論を一つずつ巻き戻していくことによってお互いに  J_A および  J_B を理解し合うことに他ならない。  J_A J_B は他の命題とは異なりそれぞれが正義の定義であり、これ以上推論を巻き戻すことができない上、その正しさが揺らぐことは決してありえない(定義だから)。そこまで議論を巻き戻すことにより、「この人はこう考えているから、最終的にこういう意見になっているのか」ということを知ることができ、それをお互いに適用し合い、話し合いによって推論が分岐して

 J_A \Rightarrow P_1 \Rightarrow \cdots \Rightarrow P_l \Rightarrow P'_{l+1} \Rightarrow \cdots \Rightarrow P'_{n'}

および

 J_B \Rightarrow Q_1 \Rightarrow \cdots \Rightarrow Q_k \Rightarrow Q'_{k+1} \Rightarrow \cdots \Rightarrow Q'_{m'}

となって  P'_{n'} \wedge Q'_{m'} \neq \varnothing となれば議論の目的は達成されたと言える。また、結局わかりあえずに破綻したとしてもその根本の原因を理解し合うことができれば、それは建設的な議論だったと言えるはずである。

このように、人それぞれに正しさがあることを理解しなければ建設的な議論などというものを行うことは到底不可能であり、それを理解するのに数学は良い反面教師になりうる、ということである。結論としては、数学を学習することで逆説的にこの世界の異常さを知ることができ、それだけで他者に寛容になるための初歩の精神を手に入れることができるだけではなく、意見が対立したときにもその建設的な解決方法を保有することができるのである。

もし今数学を学ぶ理由がわからずに悩んでいる人がいるとしたら、あえて目を数学の外に向けることで、その意味を理解して豊かな人生を歩んでいくことができるかも知れない。いや、そうあってほしい。人それぞれに異なった正義の定義が存在し、その存在を互いに認め合うことで、人間社会はより成熟していくと思う。



それはそうと、ハルヒの新刊、やっぱり良いですね。やっぱり長門俺の嫁異論は絶対に認めない。