愛想モルフィズム

I saw what I am

ラーメンと麻雀とライプニッツ係数

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硬め濃いめ多め

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その日はコンビニの準夜勤バイトがある日だった。準夜勤というのはその名の通り夜勤に準ずる業務形態であり、私の勤務している店舗では22時から翌1時30分までの3時間半が準夜勤に当たる。もっとも私のバイト先のコンビニは24時閉店であり、そもそも夜勤というものが存在しない。そのため準夜勤がクロージングにかかるすべての作業を担う。

その日も私は閉店間際に来た雑誌の品出しをしていた。ちょうど半沢直樹のセカンドシーズンが連日話題になっていた時期であり、タイムラインやマスメディアが半沢語録で溢れていたのだが、かくいう私も雑誌の品出し中にその半沢語録を目にすることになる。というのも、「誰が読むんだよこれ」と品出し時毎回思う『本当にあった笑える話』だかなんだかいうよくわからないオムニバス形式の漫画雑誌が届いており、品出し中にその表紙を見たのだが、『皆さんからの倍返し体験集めました!』というタイトルがデカデカと書いてあり、おそらく堺雅人さんであろう似顔絵のイラストが横に添えられていた。しかし、その堺雅人さんのイラストが髪の分け目をピシッとさせて人差し指をピンと上に立てているものであり、「いや半沢じゃなくてリーガルハイじゃねーか!」と心のなかでツッコんでしまった。

仕事を終えた私は原付で家に帰り、もらってきた食事補助の中華丼を食べながらジャルジャルタワーを見て、その後雀魂を打ち始めた。その日はまぁことごとく和了れず、振り込みもせず、なにもできないまま0-0-2-2とかで終わった。時間はもうすでに4時を回っていた。前に数学系のイベントで知り合った方が『J-POP、午前4時に思いを馳せがち』とツイートしていたが、事実としてそういう歌詞はたくさんあるし、午前4時という夜とも朝とも定義しがたい、思想の同値類に依存する微妙な対象に思慮を深くすることは自然なことのように思われる。その時の私も、麻雀で負けたことによるやり場のない苛立ちと無為に夜を更かした罪悪感、そして何者にもなれずただ毎日を消化する自分に対する劣等感が渦を巻いて私の感情を締め付けては、その苦しみから解放されるには第一に行動せよと私の理性が私の脳裏の上でクラッカーを鳴らして囃し立てている。

2

「寿々喜家って美味しいですよね!」
バイト中、後輩からそう話しかけられた。ちょうど、今住んでいる辺りに飯屋さんがないという類の話をしていたとき、家系ラーメンの話題に移り、冒頭の寿々喜家の話になった。寿々喜家というのは相鉄線上星川駅徒歩5-10分ぐらいの場所にある家系ラーメンのお店である。私が上星川に住んでいたとき、私は寿々喜家に通い詰めていた。その当時はフル夜勤をしていてお金もまぁまぁあったので、今日何を食べようか、と迷ったときは、家から徒歩3分という近さも因子となり、だいたい寿々喜家に行くことにしていた。そもそも寿々喜家は私が家系ラーメンというものを意識して食べ始めた最初のそれであり、現在でもそれは最上の家系ラーメンでもある。私は家系ラーメンを食べるときは硬め濃いめ多めを頼むことにしているのだが、これは行ったことのないお店に初めて入るときもこのルールは適用される。なぜかといえば硬め濃いめ多めが私の中のスタンダードであるからであり、その基準に対して鶏油の層のdepthや醤油と豚骨の比率、チャーシューの種類などの差異を判別していくのである。寿々喜家に通い詰めていた時から硬め濃いめ多めのみを頼み続けていたので、週一で通っていた頃は寿々喜家の店員さんに「硬め濃いめ多めですよね?」と向こうから聞いてきてくれるまでになっていた。それが寿々喜家のプロフェッショナルであり、私が寿々喜家を愛する理由でもある。

午前4時、まどろみさえ現れない冴えきった脳は私の体をラーメン屋へと向かわせた。今思うと相当評価値がバグってるのだが、無能感で満ちた私の思考フローがはじき出した最適解が「午前4時にラーメン屋に行く」というものだったのだから心底呆れる。呆れているからこそ、こうして言い訳を並べているのかもしれない。私はヒートテックのタイツを履いてからズボンを履き直し、原付にまたがった。これも相鉄線沿いなのだが、和田町に「どんとこい家」という家系ラーメンのお店がある。このお店の特徴はなんと行っても開店時間の早さであり、なんと朝の4時にお店が開く。私は夜通し作業した日などに朝方どんとこい家に行くことがあり、店はそこまで広くはないが時間も時間であるためそこまで混むこともなく、ラーメン自体の味も大変気に入っているので、近場のラーメン屋としては大変満足している。ここまで書けば、聡明な読者諸君にとっては、バイト先での会話で完全に家系の口になっていた私がどんとこい家に向かった根拠としては十分であるように思われる。

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麻雀とはどのようなゲームかという問いに対する答えは、私のような凡才麻雀プレイヤーでさえ軽く5つほど思いつく。私個人としては、月次ではあるが、麻雀は押し引きのゲームであるように思う。牌理や牌効率といったものは絶対にマスターしなければならない至極基本的なものであり、その上で手を広げるか狭めるか、押すか引くかを選択していくゲームだと思っている。私の(師匠とも言うべき?)麻雀仲間の先輩はいつか「麻雀は4人でやるゲームだ」と言った。私はその言葉の意味を理解するのに半年以上かかったし、今でも完全に理解しているかは自信がない。麻雀が4人でやるゲームだというのは、ただ単純に4人に1人しか和了れないという意味に制限されない。4人がそれぞれ自分の利益を最大化するために行動し、捨て牌を以てコミュニケーションをとり、時には協力し、時には対立する。麻雀とは協調性のゲームであり、協調性のない人間は勝つことができない。自分の興味のある話しかせず、会話の文脈を共有せず縦軸から逸脱して我道を行こうとする人間は麻雀でもそういう打ち方をするし、当たり前のように負ける。麻雀はよくできたゲームで社会の縮図であるとも言われるが、私がその主張に賛成できるのは以上の理由からなる。要するに、ある程度4人で協調性を持ってプレイできなければ自分の利益を最大化することはできない。

長くなってしまったが、私はそういう意味では協調性はある方だと思う。会話とはキャッチボールであり、双方向の投げっぱなしではない。相手の立場や思考を予め想定し、実際の発言に対して受け身を取った上でリアクションを取る。このときのリアクションは独りよがりであってはならない。いや、あってはならないというのは私の価値観の上での話であった。私の定義する面白い会話というのは上述したような会話のことであり、お互いに自分の言いたいことを言い合うだけの会話が面白い会話であると定義している人間にとっては、私の言説は真ではない。

私はよく会話においてMCに回ることが多い。それは、私の創作の根幹にある「自分が魅力的な人間ではない」という絶望から端を発する「魅力的じゃない自分に興味がある人なんてだれもいないだろう」という当然の帰結と、「それなら会話するときは聞く側に回って会話を回そう」という諦めが私をそうさせているだけではない。私がMCに回る最大の理由は「そのほうが長期的スパンで見て自分の利益が最大化できる」と信じているからである。もちろん短期的には、自分の言いたいことを言えればそれで満足できるので精神的幸福度という利益を得ることができるだろう。しかし、それはあくまで短期的な利益であり、平易な言葉で厳しく言うと、それはその場限りの幸せである。会話はお互いに相手の思想を思いやり深い場所までラリーを続けていくことによって、純粋に知らない知識を得ることができたり、相手の思考フローの特徴に気が付いたり、もっと簡単には「仲良く」なることができるはずである。それは人生という長い期間で考えると、少なくとも正の利益であることは疑う余地がない。「俺はこう思う」「私が知ってるのは…」に終始しない会話は人生を豊かにするはずだ。

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最近私の麻雀の押し引きは引きに寄ってしまっている。麻雀におけるコミュニケーションが上手な人であれば、捨て牌という相手の主張を正しく読み取ってある程度は論理的に正しく押していくことができるのであろうが、私はそこまで上手ではないので、最低限和を乱さぬように、引くときは引くことにしている。だからこそ、それが100%正解であるとは到底思えないが、私の能力との兼ね合いで現状「利益を最大化できる」選択肢が「引き」になっているということである。

ただ、手牌に依ってはそんな自分でも押さなければならないときもある。私は賭け麻雀をしたことは一切無いのでよく分からないのだが、以下の内容は単純に一般的に言われていることだと考えていただきたい。例えば、以前ニュースで話題になっていたテンピンというレートでは1000点で100円に換算される。テンピンにおいて12000点の放銃は1200円の損失であり、一般的なルールではウマやオカというボーナスも加算されるため、もしその放銃でラスに落ちてしまえば、損失は5000円以上になることもある。もちろんそれは半荘単位のものであり、それが続けばもっと大きな損失を被ることも有り得る。学生ではテンサンやテンゴといった比較的軽めのレートが使用されることもあるが、それでも日に1万円近く負けることも無いわけではない。重ねていうが私は賭け麻雀をしたことは一切無いので、これはあくまで聞いた話である。

放銃するのが絶対的な悪だとは言わないが、やはりほとんどのケースにおいて放銃は半荘単位で大きなリスクを伴う。もし真の正のレートで打っている場合はそれは実際のお金の損失という結果として現れ、それは学生にとっては小さな事象では決して無い。そういう風に考えることで、またそういう風に考えてしまうことで、私のメーターは引きに振れていくのである。「もしテンサンで賭けていると仮定して、これを打ってピンピンロク振ったら半荘で1500円ぐらい持って行かれるのか…」などと考えて自分の手を諦めることなどはしばしある。これはあくまで仮定の話であり、私は賭け麻雀をしたことは一切無い

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その日の麻雀でも、私は基本的には引き気味に、無警戒な振り込みをさけるように慎重に打っていた。しかし、逆連帯(3,4着のこと)が続いていた最終半荘でそこそこ高い手が入ってしまったので、点数状況的にも行かざるを得ない局面で親リーに対してガンガン押すことにした。最終的にその局は親リーのツモアガリによって決着するのだが、もし私がレート戦で同じ状況にあったときに今の手を押したかどうかは甚だ疑問である。上述の通り麻雀において「押し」は非常に大きなリスクを孕んでいる。親に支払う点数は子の1.5倍であるため件の行為はさらに危険度も高く、相当のリターンが期待できない状況でないと押すことが有効であると言い切れない。世俗的な表現をするならば、押しに依って1200円の損失を被るリスクがあるが、同時に390円の利益を得る可能性もある、といった勘定である。なお、実際には先程も言ったとおりウマやオカといったボーナス、そして着順と局数の関係もあり、ただ単純に高い手だから良くて安い手だから悪いということではないことは十分理解しているが、実際の身に降りかかる損失に写像して考察してみると、押し引きにまつわる事の重大さを改めて認識することができるだろう。

晩秋の未明、不甲斐なさを引きずりながら原付に乗って大池道路を下る私の体に冷たい夜風が吹き付ける。凍えそうな私の体とは対照的に、暗闇の路傍に並び立つ無を照らす街灯は季節という概念を持たない。歩行者のいない午前4時に、供給される電力を徒に消費し続ける無個性な機械を見て、私はこの世界の豊かさに少しだけ気付いて、同時に少しだけ嫌いになった。

16号線付近の交差点、信号は赤。私は原付に乗りながらその信号に気付いたので減速をする準備に入った。しかしながら、一般的に午前4時の交通量は無視できるほど小さく、それはこの大都会横浜にあっても同じことである。私はふと、一瞬だけ、この信号を無視して交差点を進んでみようかと考えた。こちら側の信号は赤であり、垂直方向の信号は青である。つまりこの信号を無視して交差点に進んだ場合は垂直方向の交通と衝突するリスクがある。しかし、もし衝突が発生しなかった場合はより早くラーメン屋に行くことができる。闇夜の下、原付に跨りながら奇しくも私に再度「押し引き」の選択が発生した。

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これは一般常識的には「引き」一択である。交通法規的にも一般の倫理的にも信号無視はしてはいけないことであり、免許を交付されている人間に必ず備わっていなければならない必要最低限の素質でもある。しかしながら、信号を無視するための推論が自分の中にはあったのだ。まず一つ目としては交通量、そして二つ目としては監視カメラや衆人環視が無いことである。もし私がもう少しひどい麻雀の負け方をしていたとしたら、それらの根拠から推論を帰結させて信号を無視していたかもしれない。幾分か理性を保っていた私は冷静に判断し、赤信号の前で原付を止めた。

すると次の瞬間、大型トラックが垂直方向の交通をフルスピードで駆け抜けていくのが目に入った。

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先制テンパイから親リーが入り、「引き」を選択した私は手を崩して流局を迎えた。開かれた親の手牌を見て当たり牌を掴んでいたことを知り、押さなくてよかったと安堵した経験は少なくない。原付の上の私もまた、引きという選択によって損失を回避することができたのである。麻雀で、レートがあるなら相当の損失を被るであろう押しをガンガンにしていた私が、交差点という場所では押しの選択をしなかったのはなぜなのか。その選択は本当に正しかったのか、そんな疑問が私の中で発生した。もちろん結果だけ見るとそれは大正解だった。もしあの状況で押していれば最悪で死亡、最高でも大ケガは免れ得ないであろう。しかし結果論というのは本質的ではなく、どう考えどう判断してその選択に至ったかを論理的に示すことが重要なのである。麻雀動画のコメント欄では不毛な議論が交わされていることが多いが、この「論理的に説明する」ことが欠けており結果論だけで語る視聴者が多いことが一つの理由でもある。

つまり、私は「早くラーメン屋に行くことができる」というリターンと「死亡あるいは大ケガをする」というリスクの差し引きを正しく議論するための基準を持ち合わせていなかったのだ。世俗的に言えば、 今私が死亡するという行為は誰にとってどれぐらいマイナスが出るのか、ということを知りたかったのだ。もちろん倫理的には命に値段をつけることはできない。しかしながら司法的観点から議論すると、死亡や大ケガという状態は容易に金額に換算することができる。あるいはそうしなければ司法的手続きを進めることができないのだろう。私は自分の命の値段を調べることにした。

一般的に交通事故で死亡した場合、2000万円程度の慰謝料を請求できるようだ。倫理を除外して結果だけ考えると、加害者である運転手は遺族に対して2000万円を支払って被害者の命を買っているような換算である。つまり、もっとも簡単に言うと、私の生命はおおよそ2000万円であると言えるだろう。しかしもう少し調査をすすめると、私はある言葉を目にした。それこそがライプニッツ係数である。

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ライプニッツといえば微分積分学を(ニュートンとは独立に)確立した人物として知られ、現在でも使用される  dy/dx という記法はライプニッツが考案したものとされている。私が初めてライプニッツの名前を認識したのは数学ではなく世界史であった。山川の一問一答で問題とされている程度には一般的に知られている数学者・科学者の一人である。一見純粋数学とは関係なさそうな社会科学の範疇にある慰謝料・損害賠償についての調査の中でライプニッツという単語はある種の特異点であるように感じられた。

利率を  p 、年数を  n とすると、ライプニッツ係数  r(p, n)

 \displaystyle{r(p,n) = \sum_{i = 1}^n \frac{1}{(1 + p)^i}}

と表される。ライプニッツ係数は一般に逸失利益を計算するために用いられるものである。もし、交通事故により死亡した場合、単純に慰謝料だけが支払われるのではなく、その被害者が生きていたとしたら得られたであろう利益(逸失利益)を加害者に対して損害賠償請求することができる。その逸失利益は以下の式で計算される。

逸失利益  = 基礎年収  \cdot 生活費控除率  \cdot ライプニッツ係数

基礎年収とはその名の通り計算の基準となる被害者の年収である。また、普通に生活していたするならば利益だけでなく生活するのにかかる費用も発生するため、その分を差し引くために生活費控除率というものを考える。そして、それに対して利率と年数に対応するライプニッツ係数をかけて逸失利益は計算される。

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もし年収500万円の54歳の男性が交通事故で死亡したとする。定年が65歳であり被扶養者が1人の一家の支柱(生活費控除率が30%)であるとすると、

 500 \cdot (65 - 54) \cdot 0.3 = 1650

となり、1650万円を損害賠償として請求できそうである。これは、年収500万円を11年間受け取った5500万円のうち、70%は生活費に回るので純粋な利益としてはその30%の1650万円がもらえると考える。しかし、収入というのは将来に渡ってもらい続けるものであり、それを一括で得ることができたのであれば、その金額を預貯金することにより利益が発生し、将来に渡ってもらい続けるよりも利益が大きくなってしまう。このような利益を差し引いて考えるために、ライプニッツ係数を考える。法定利率 3% において11年間のライプニッツ係数はPythonで計算すると

>>> def leibniz(p, n):
...     sum = 0
...     for i in range(n):
...             sum += 1 / (1 + p)**(1 + i)
...     return sum
...
>>> leibniz(0.03, 11)
9.25262411337459

となり、

 \displaystyle{r(0.03,11) = 9.25262411337459}

であることがわかる。実際、三井住友海上火災保険株式会社のPDFの表を見ると、利率3%年数11のライプニッツ係数は9.253と近似されている。つまり、当該人物の逸失利益

 500 \cdot 0.3 \cdot 9.253 = 1387.95

となる。これは単純に計算した1650万円よりも少ない額となっているが、これはお金を持っているだけで利益が出るという特性を考えれば公平であろう。

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そんなことを考えながら、私はどんとこい家でラーメンを啜っていた。私がいつも頼むのは昼めしセット(ごはん+煮玉子のり5枚)にねぎMixトッピング。作りはもちろん固め濃いめ多めである。私は押し引きの選択を間違えず、その結果このラーメンにありつけている。自分の命を2000万円だとすると、2000万円損するリスクとラーメンを早く食べることができるリターンの選択は、圧倒的にリスク回避という選択肢が正しい。ここまで考えてやっと、客観的に納得できる推論を行うことができた。私はそのことに満足して、赤い顔でラーメンを貪り食った。海苔に載せたおろしにんにくをスープに溶かし、それをご飯に乗せて食べるのがここ数年の一番の幸せと言っても過言ではない。そんな身近で低俗な幸福感を得ただけのことであってさえ、押し引きを間違えなかった恩恵と言うにふさわしい。

ある日私は麻雀でボロクソに負けた。その日はどんな選択をしても裏目裏目を引き、朝になった頃には、麻雀以外での任意の選択に対して私は全く自信を持てなくなってしまった。スマホにはツイート通知が届き、陽の当たる人間たちの虚像とそれらへの追従者、行動する人々の雄弁を見せつけようとしてくる。私にはそれらの人々が私に対して、「私たちは選択を間違えなかったよ!」と言っているように思え、その声は私の網膜に私の実像を射影した。国語が得意で数学が苦手だった自分が数学科に進学した選択、部活を半年でやめた選択、就活をやめて博士課程に進学した選択。今までの人生の中で私は幾度となく大きな選択を行ってきた。今の自分には、それらの選択がすべて正しかったと言い切るに足る確証が無い。あまりにも、無い。

いつか、そんな自分に「あの選択は正しかった」と言ってあげられる日がくるのであろうか。そしてこれからも、選択を迫られたときに論理的に正しく選択を行い、推論でその根拠を示すことができるのだろうか。正しい選択をしたと自分が思える経験があまりにも無いから、今後も失敗し続けるのではないかとも考えてしまっていた。その日私はツイッターのアカウントを消そうとさえ思っていたが、そのことを師匠の先輩に話すと、それはやめておけと言われた。私は選択をすることが怖かったので素直に先輩の言葉に従い、アカウントを消すことはなかった。 今になって、とても小さなことだけれど、その選択は正しかったのではないかと思う。もちろん今でもそういった劣等感は拭いきれていない。それでも、あのときツイッターをやめなかったことは自分に対してプラスの利益を与えていると考えられる。それは、私の創作物がある程度人の目に触れていることが根拠となる。そんな些細なことでさえ、選択を間違えてばかりの私にとっては貴重な経験である。

家に帰ってきた私は胃薬を飲んで歯を磨いてソファーベッドに横になった。私の胃袋はもう、ラーメンとごはんを押し込むには小さすぎるらしい。最近は家系ラーメンを食べると毎回こうなってしまうので、硬め濃いめ多め、あるいはライスといった選択は間違いなのかもしれない。それはとても悲しいことだなと考えながらも、私はまた、間違った選択を繰り返すのである。