愛想モルフィズム

I saw what I am

クリエイターは結局フォロワー数だという話

ある絵師のツイートがTLに流れてきた。具体的な言及は避けるが、大方このような内容だった。

フォロワー数が少ないから、という理由で仕事を断られました。

私はバズったツイートはコメント欄も見ることが多いのだが、見る前にしっかりと自分の意見を持ってから見るようにしている。その意見は後述するとして、当該ツイートには絵師を擁護するリプライが多く寄せられていた。中には「クライアントを教えてくれ、文句言ってやる」などといったものもあり、大体は『イラストではなくフォロワー数によって判断されたことに憤慨する』ものであった。

さて、前述の私の意見というのは「おっそうだな。」というものである。

私はクライアント側の人間ではないので、フォロワー数の多いクリエイターのほうがいい理由を商業性やその後の展開などに求めることはしない。そういったものよりもむしろそのクリエイターの作品に求めるのである。このSNS全盛の時代ではフォロワー数の多い人間がほとんどのケースで得をしている。もちろんクリエイターにあっても同様であり、同じクオリティの創作物を世に出してもフォロワー数の多いクリエイターの方が多くの人の目に届き、結果利益をより多く得ることができる。では、それはなぜか?

これもSNS全盛時代特有のことであるかもしれないが、基本的にはマス(大衆)に迎合できる人間がクリエイターとして大成する。クリエイティビティとは一見そのような概念とは相対する行為であるように思われるが、そんなものは微小で十分であり、マスにチャンネルをうまく合わせることの方が重要である、というか早く大成できる。フォロワー数とはマスからの認知度であるだけでなく、同時にマスへの理解度と貢献度を表す指標でもある。これは目に見える数字としてのフォロワー数だけでなく、その人の考え方に対する認知度としてのソフトな「follower」の規模として考えることもできる。故に、フォロワー数の多いクリエイターの創作物はマスへの訴求力があり、結果としてクリエイターの創作物がコミュニティに受け入れられる可能性が大きくなり、そのクリエイターは優秀であると結論づけることができるのである。

という正論はここまでにしておいて、私がこんなことについてわざわざブログに書くことにした大きな理由をここで書くことにする。それは、上述したクリエイターとフォロワー数の関係性ではなく、先のツイートに寄せられていたリプライについてである。

私も底辺クリエイターとして様々なものを創作してきた。そのどれもが時間をかけて丹精込めて作った自信作であったが、残念ながら客観的にヒットしたと言えるレベルまでは到達していない。より具体的に言えば私が作ったカバー楽曲の動画はどれもYoutubeで2桁しか再生されていない。私は楽曲の(歌唱力や演奏力などは除外した)音源としてのレベルは低いとは言えないと自負している。一方でお笑い芸人がネタとして作ったであろうヘッタクッソなカバー音源が10万回以上再生されており、そういうのを見ると、コンテンツとは何をやるかじゃなくて誰がやるかなんだな、と何度も認識するのである。だからこそ、手数を増やして様々なものに挑戦することに依ってフォロワー数を増やし、「誰がやるか」の対象になる努力をしなければならない。もちろん本心では人格(フォロワー数)ではなく作品で評価してほしいと強く思っているが、そのような願いは時代遅れであり、おごりとも言うべき、マスに対しての横柄な態度なのではないかとさえ最近では考えている。

そんな中で最初のツイートに戻る。「おっそうだな」と思ったあとにリプライ欄を見ると、そのツイート主をフォローするリプライが多く寄せられていた。私はそれを見て

いや、どっちなんだよ!!!

と声を出してしまった。マスは何をやるかではなく誰がやるかを行動原理としており、その結果人格と作品は強く結びついている潜在的に考えているものだと思っていた。しかしながら現実的に発せられたのは人格と作品を区別して評価するべきというものであった。私はそのリプライを見て、今まで私がしてきたフォロワーを増やす努力が否定された気がして少し悲しい気持ちになった。それと同時にそのようなリプライを寄せた人間たちに対する怒りも芽生えてきた。

普段我々が目にしている創作物は、たいてい「フォロワー数」の多い人間の創作物である。このフォロワー数とは先程も書いたとおりソフトな意味も含んでいる。要するに、多くの人間は上辺では人格と作品は区別して評価するべきと考えているにも関わらず、そのような人間が摂取しているコンテンツは人格と区別して作品だけを見て選ばれた作品ではないということである。そんな人間たちが何も労せず厳選されたコンテンツを消費し、そのことを自覚せずに「人格と作品は区別して評価するべき」などと宣うのを見て、私は真に悲しくなったし、底知れぬ怒りが沸き立った。ふざけんなよクソが。

ハッシュタグや質問箱で遊び、他の絵師とイチャイチャして、そんなのの何が楽しいんだ。作品は人格と区別して評価されなければならない。以前までそう考えていたけれど、それらはこの時代においては作品を作ることよりも重要であるかもしれない。私にとって非常に受け入れがたい事実をなんとか心に押し込めようとしていた私に対して、上述のリプライ欄は非情にも私を混乱させ憤怒させるものであった。そして私はまた正解を失い、露頭に迷い続けている。

でも、それでも、やっぱり、「人格と作品を区別して評価して」ほしい。本質を見て判断してほしい。少なくとも自分はそうする。そう思うのは卑怯なことだと分かっていても。


フォロワー数がたくさんいる状態でこのような文章を書くのは棘が立つ気がして、今のうちに書いて置かなければならないと思いブログを更新した。それと、D4DJの5話を見てて大鳴門むにというキャラクターが「私のVJが評価され、最終的に私自身が評価されたい」と言っているのを聞いて、それはあまり考えたことのなかった発想だと思ったので、それも付け足しておく。

というのも、私が前半で書いていたのは

「人格」→「作品」

という話であり、私はこうじゃなくて

 \varnothing → 「作品」

であってほしかった、ということを書いていた。それが、彼女に言わせれば

「作品」→「人格」

というのである。これはなかなか、クリエイターには思いつきづらい発想なのではないかと思う。もしかしたら、こういう発想ができる人間がこのSNS全盛時代をうまく渡っていけるのかもしれない。知らんけど。


なんかよくわかんないと思うけど、

  1. クリエイターの作品はフォロワー数である程度評価できる。
  2. だからフォロワー数(人格)で判断するのは間違いではないよ。
  3. それに対して文句言ってんじゃねぇカスが、お前ら普段そうしてんだろ。
  4. その批判自体はわからんでもないねん。ワイも作品と人格は分けて考えてほしいわ。

というのがこの記事のアウトライン。どうせこんなフォロワー数の少ない人間の記事なんて誰も読まねーと思うけど。