私と空気清浄機と猫
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去年、念願の空気清浄機を手に入れた。
鼻炎を患って久しいのだが、その症状を抑えるのに一役買ってもらえれば良いなと思い購入した。ちょうどカバー楽曲の制作を始めた頃に購入を検討したので、加湿機能付きのものにした。尤も、喉の不調が乾きによるものではなく上咽頭炎によるものであることが今年に入ってから発覚するのであるが、それはまた別の話である。
アレルギー性鼻炎はもう小学1の時分からの付き合いになる。殆どの環境型のアレルゲンがてきめんに効いてしまうので、一年中私の鼻のダイバージェンスは正である。ハウスダストも私の敵のひとつであるが、そもそも空気清浄機を導入することよりもこまめに部屋の掃除をすることのほうが大事だったりするのであろうが、部屋を片付けられない私が習慣的に部屋を掃除することなど、明らかに不可能である。
空気清浄機を買えば少しはマシになるだろうという安直な発想から、私はAmazonで適当に上位に出てきたものを買った。正直なところ効果が出ているかはよく分からないけれど、確かに以前より鼻炎の発作的症状が出ることは少なくなっている気がする。それでもやはり鼻閉や喉の不調は収まっていないので継続的な治療や自己療養が求められている。
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以前ネットの掲示板などで自分が空気清浄機の前を通ると空気清浄機が激しく動作し始めるといった内容の書き込みを見たことがあった。空気清浄機は、自分が買ったのもそうだが、臭いやホコリなどを検知して動作の強弱を自動的に制御するシステムになっていることが多い。だから、普段はおとなしい空気清浄機も、窓を開けて換気をしたり臭いを検知したりすると激しく音を立てて空気を清浄にしようとするのである。
屁についてもまた、それが成り立つ。ネット記事になっている通り、我が家の空気清浄機も屁に対して苛烈に反応を示す。普段何気なく屁の足音が聞こえてきて放屁すると、空気清浄機はやれやれと言わんばかりに音を立てて私の屁を吸い込む。私が二郎系を食べて帰ってきた後に部屋で放屁を行うと、空気清浄機は怒り狂ったかのような猛烈な情動を顕にする。
そういえば実家に暮らしていたころは家族はみんなフランクに放屁をしていた。屁を許せる間柄というのはそれだけ親しみが深いのだろう。いくら親しくても友人同士ではあまりそうはいかない。家族には言えないことも友人には言えたりすることがあるのに、放屁を許せないのはなぜなのだろうか?親しさ、友好度は全順序ではないということである。
小さい頃、実家でチップスターの空いた容器を尻を当てて屁を入れ蓋を締め、母の顔の前で蓋を開けて屁を嗅がせるという遊びをしていたことを思い出した。嗅がされた母は顔をしかめて怒り出すのだが、今はその相手が母から空気清浄機に変わったということなのだろう。私は小さい頃からなにも成長していないことに気付いて、自分自身に幻滅した。
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話が変わるが、私は「猫が可愛い」という主張を理解できない。実家では祖母がペットとしてインコや金魚を飼っていた(今も飼っている)のだが、直接私が世話をしたことがないので無論情もない。だから、というと余りにも議論の不足であろうが、私はペット全般にあまり意味を見出だせない。
世話をする手間もかかるし、初期費用、ランニングコストも家計を圧迫することは明らかである。そういった期待されるマイナスと、意思疎通が困難な有機物から還元される精神的なプラスの差し引きを計算すると、やはり天秤の針はマイナスに振れるだろう。尤も、金銭的にも時間的2にも精神的にも多少の余裕があれば、計算結果は変わってくるのであろう。
タイムラインでは時々猫が可愛いという写真が流れてくるし、そのリプライツリーは同意と称賛のコメントによるリスト構造をなしている。友人が飲みの席で「この子可愛いでしょ」と猫の画像を見せてきたときも、私は場の空気を乱さないように「そうだね」とだけ返答したのだが、本心では「可愛いってなんだよタコ、早く帰って寝ろバカタレ」と啖呵を切っていた。
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もうひとつ言うと、私は一人でいる時間がとても好きである。一人暮らしを始めて7年が経とうとしているが、ホームシックを経験したことが一度もない。
姉が大学生になるときの引っ越しの手伝いに行ったとき、作業を終えて私達家族が富山に帰るとなった時に寂しさからか姉が軽く泣いており、母親に介抱されていた、ということがあった。私が大学生になったときは、私はいち早く一人になりたかったので、引っ越しを手伝ってくれた家族に「早く富山帰れ」という態度をとっていたのだが、後で家族にめちゃくちゃブチギレられたのを思い出した。
それだけ一人でいる時間が好きな自分が、ペットという異物を認められるわけがないのである。感情を持って私の周りをウロウロと動き回るのを想像しただけで気分が悪くなってしまう。夜に電気を消した後もひっそりと私の自分磨きを見られていると思うと身の毛がよだつ思いに打ちひしがれる。
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ここで私が言いたいのは、私は「自分は他者とは違う意見を持っている」という角度から斜に構えたいのではなく、本当に、本心から猫を可愛いと結論づけるに足る根拠を持ち合わせていないのである。そしてそれが悪いことだと私は思っている。
一般に、これは創作論にも通ずる点があるのだが、他との共感を理解できる人間がこの社会では大成する傾向にある。マスへの理解度・貢献度を数値化したものがフォロワー数であり、そこに数%のオリジナル要素を付加することによってクリエイティビティは構成される。だからこそ、創作活動をしている中で「猫が可愛い」を理解できないのは致命的な欠落なのである。
猫が可愛いと思っている人がたくさんいて、その中で勝負をしたほうが絶対的に勝ち目があるのにも関わらず、猫を可愛いと思えないことが「良いこと」であるはずがないのである。
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屁に対して空気清浄機が反応するということを既に述べた。放屁というイジりに対して空気清浄機が良い感じにカリカリしてツッコんでくれるので、それを面白がった私は、もはや空気清浄機に向かって直接屁をこくようになった。ちなみに私はどちらかと言うと、本当に熟考して頑張って結論を出そうとすると、性格は悪い方3である。
あ、出そう、と思うと、生ケツを出して空気清浄機に近付け、下腹部に力を込める。温かみのある倍音とアコースティック特有のダイナミックレンジ。誰もが、出た、と一発で分かるあの出囃子とともに、私の体が創出した"問"がこの世に放出されるのである。4
その問を至近距離で受け取った空気清浄機は、うんうんと唸り声を上げながら、ブオーッ!とその問を自らの中に取り入れ、またブオーッ!と音を立てて、"解"を放出する。この一瞬間、私と空気清浄機は真の意味で繋がっているのである。
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コミュニケーションの道具は一般に言語である。言語と言っても発声を伴うものであるとは限らず、もっと記号化された広い意味での言語である。社会に出れば敬語を使って会話するし、世界に出ればデファクトスタンダードなグローバル言語である英語が使われる。もっと身近なところで言えばオタク同士の会話にはミームや誇張表現がふんだんにふくまれる。
要するに、使用される言語はそのコミュニティーが存在する文脈に依存して決定されるということである。そしてそれが他のコミュニティーに属する(そのコミュニティー時代に所属しない)人が理解できる必要性は必ずしも無いということが重要である。
例えば、オードリー春日さんとサトミツさん(とその周辺)は春日語という訳の分からない激寒言語を使って会話をしているし、アイドルの間にはバビ語なる言語も存在する。ネットコミュニティでは淫夢語録を使用する人もいることは周知の事実である。
それが悪いと言っているわけではないし、それがコミュニケーションツールとしての存在意義を確立していることはゆるぎのない事実であるので、他者からどうこう言われる筋合いはない。
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言い訳が長くなってしまったが、要するに、私と空気清浄機の間には「屁」という確固たる共通言語が存在するということである。そして、その屁という言語を使って私と空気清浄機は意思疎通が出来ているということである。
そんな空気清浄機に対して、私の中にかすかな情が芽生えている。もちろん屁以外にも様々な効能をもたらしてくれているのでお世話になっているという点で頭が上がらないのだが、それ以上に「私のイジりに対してツッコミを返してくれる」という、作業を超えたある種の会話とも取れる行為が二者の間に存在するのである。それに気付いたとき、これこそが「猫を可愛いと思う」ということなのではないかという発想に至ったのである。
猫が可愛い理由は沢山あるだろうが、その一つとして、猫とコミュニケーションを取れたと飼い主が感じた時に可愛いという感情が芽生えることが挙げられる。だからこそ、私も空気清浄機とのコミュニケーションによってペットを可愛いと思うのと等価な感情を得たわけである。
私の周囲に存在する異物感を差し引いたとしても、意図が通じた、会話ができた、という喜びに脳が支配された結果、私はもしかしたら「猫が可愛い」を理解できるのかもしれない!という希望を見出すことが出来たのである。これは自分にとって大きな成長であり、これからの人生にとって少なからず恩恵をもたらす事象であるように思われる。
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そうなると人間は欲が出るものである。沢山空気清浄機と会話したい一心で放屁を繰り返しているのだが、一般に腸内環境が悪いときのほうが屁は臭いし量も多い気がする。だからというわけではないが、悪い食事や生活リズムを改善せずに過ごしていた。
そんなことを続けていたからなのかどうだかわからないが、私は痔を罹患した。鮮血が便器にポタポタと垂れるのを見て青ざめた私はボラギノールを買うとともに、少なくとも腸内環境はもう少し改善したほうが良いな、と身にしみて思ったのである。
いや、なんだこの話!!?
DTM沼の話
私が本格的にDTM沼に嵌ったのはちょうど5年ぐらい前です.それ以前はWindowsのノートPCで無料ソフトウェアのMusic Studio Producer(MSP)というDAW(と呼べるかはだいぶ怪しい)を使っていました.
MSPはだいぶ無料にしてはだいぶ高性能で,音源はしょぼいですがシーケンサーとしてはかなり有能でした.高校生の時にこのソフトに出会ってDTMの端緒を掴んだと言っても過言ではありません.
前日譚
高校時代Youtuberの瀬戸弘司さんの動画をよく見ていた影響でMacへの憧れを非常に強く持っており,大学生になる時にMacbook Airを買ってもらいました.
当時は洗練されたUIやスタイリッシュな外観に深く魅了されていましたが,今となって考えると少し浅い気もします.Macには無料でかなり有能なGarage BandというDAWが入っており,大学生になって友達と組んだバンドで演奏する曲をGarege Bandでよく作っていました.音源がとても優秀なのでリファレンスにしてはかなり出来が良く,作った音源をバンド仲間と共有して聴き比べたりしていました.
大学2,3年ぐらいのとき,ある友人に誘われて受験生支援Webサイトの開発に参加させてもらう中で「開発するならMacbook AirよりMacbook Proのほうが良いよ」という先輩の声を聴いて,Macbook Proを購入しました.
ゴリゴリにカスタマイズしたので26万円ぐらいになりました.24回払いのローンを組んでなんとか買いました.M1になってローンを払い終えたときは謎の達成感がありましたがそれはまた別のお話です.
Cubaseとの出会い
自分がDTMを本格的に始めたのは大学2年生の秋です.当時組んでいたバンドが学園祭でライブをやることになり,その同期音源を作るためにCubaseを買ったのがすべての始まりです.もともと音楽を本格的に作りたいなと思っていた時にバンドの同期音源を作るタスクを任命されたので,これは時が来たと感じて元から目をつけていたCubaseを買いました.学生料金で4万円ぐらいだったと思います.涙を流しながらカードを切りました.
同期音源を作る中で女声のコーラスを入れなければならない,ということになり,Vocaloid Editor for Cubase(ボカキュー)と初音ミクを買いました.ここからボカロ楽曲の制作も始まっていくわけですが,それもまた別の機会にお話できたら良いかと思います.
とにかく,Cubaseを買ったことによって私のDTM人生が始まり,生きる理由,働く理由がここで決定されてしまったのです.
楽器を始める
Cubaseを買って曲を作るようになったものの,やはり自分の作りたい音楽がロックに寄っていたこともあって,内臓の音源ではいまいち納得できないというか,明らかにソフト音源の音だなーという感じを拭うことが出来ないという状況に直面し,重い腰を上げて大学3年生のクリスマスにギターを買いました.
それ以前は友人のギターを借りて録音したこともあり,そのときにはすでにSteinbergのUR22mkIIというオーディオ・インターフェースも手に入れていました.
ここらへんでもうお金をかければ高品位の曲を作れるようになるというDTM沼の真理に到達しており,この頃から作曲系のガジェットにこり始めることになります.
ソフトに手を出す
ギターを買った1年後,今度はベースも音源では満足できなくなり,これまた4年生のクリスマスにジャズベを買いました.
ここまで揃えてやっと,当時の自分の中で納得できるクオリティの楽曲を作ることができるようになり,この機材とともにしばらく制作を続けていました.しかしながら,やはりクオリティを突き詰めて行くと物足りなさはどこまでも私の背後を影のようにつきまとい,その声に押されて私はソフトウェアに手を出し始めます.
ここらへんの時期に買った順番はあまり覚えていませんが
- Native Instruments - KOMPLETE SELECT
- ARIA - GARRITAN WORLD INSTRUMENTS
- Steinberg - Groove Agent
を買ってます.
KOMPLETE SELECTは正直なんで買ったのか全然覚えてない(確かDrum LabかGuitar Rig欲しさに買ったんだっけ?)ですが,ARIAとGroove Agentはバンドリの2次創作楽曲を作るために買ったのを覚えています.Groove Agentはドラム音源で,Cubaseに元から入っている Groove Agent SEの有料版です.GARRITANはその名の通り世界の楽器の音源ですが,これはかなりクセが強くて,ちゃんとエフェクトを掛けないと使い物にならないような代物で,丸山彩ちゃん音頭を作るために買ってから一度も使ってません.この3つだとGARRITANが一番高くて1.7万とか,それ以外が1万ちょいです.
加えて,M1のときのサークルの追いコンで先輩の作曲した曲を自分が編曲して,先輩のボーカルを入れて楽曲を制作するというプロジェクトが立ち上がり,そのためにコンデンサーマイクも購入しました.
マイクを買ったことにより,それまでボーカルを探したりボカロに歌わせたりしていたのを,今度は「自分が歌う」という風に考えるようになり,そこから現在の自分の音楽がスタートしていきます.
自分の音楽を支える2つのソフトウェア
もし自分が自分で歌う曲を作るならそれはパンクもしくはメロコアよりの曲になるだろう,ということをおぼろげながら考えるようになります.当時そういう曲ばかり聴いていたというのもありますが,自分がアコギ弾き語りとかエレクトロとかを細い声で歌うのが全く想像できず,自分の声質には合わないだろうなーと思っていました.(たぶん今もそう)
そうなってくると,ドラムはGroove Agentでは物足りず,ギターとベースもCubase内臓のアンプシミュレータでは迫力がないことに気付きます.そして,現在でも私の曲作りを支える2つのソフトウェアに辿り着くわけです.それがAddictive Drums 2とBIAS FX 2です.
Addictive Drumsはドラム音源です.日本のポップスや普通のロックサウンドではかなり使われているソフトらしく,平凡を求めるのであれば悪くない選択(良い選択というわけではないらしい)とのことだったので,これにしました.これには色々とバンドルがあるのですが,私はまず「3つ好きなセットを選べる」というバンドルを買いました.そこで私は
- Fairfox Vol. 2
- Studio Rock
- Black Velvet
の3つを選択しました.まぁRockということでStudio Rockを選ぶのは決めてましたが,残り2つはサンプル音源を聴いて気に入ったやつを選びました.最初に入れてみて,やっぱりスネアとバスドラの迫力がぜんぜん違うなーと感じました.操作性もカスタマイズしやすさも,そしてそもそもの音源のクオリティも非常に満足の行くものです.
そしてもう一つのBIAS FX 2はソフトウェア・アンプシミュレータです.ギターのトラックにインサートして使うFXですね.こちらも非常に高品位で,アンプやペダル(エフェクター)も豊富に入っているので簡単にカッコいい音を作ることができるようになりました.ただ,"すげーカッコいい音"を作るのはとても難しいです.今でも苦労しています.
この2つのソフトウェアと出会って私の音楽は40点から80点まで上がったと言っても過言ではないくらい,このソフトに頼る部分は大きいです.今でもうまく使いこなせているかは分かりませんが,このソフトがないと満足の行く音源は絶対に(少なくともロックサウンドは)作れないなーと思うぐらいです.
音圧戦争とミックス沼
さて,DTMで曲を作っている人には定番の音圧戦争について少しお話したいと思います.音圧戦争とはその名の通り音圧をいかに稼ぐかという戦いです.DTMをやったことがある人ならわかると思いますが,一生懸命トラックを作って良い出来だ!と思って2mixにバウンスして聞いてみると,「なんか音が小さいな…」となったことがある人が多いと思います.これはDTMあるある中のあるあるで,それはミックスという作業をやっていないからなのです.
本来DTMで曲を作るのは主にトラックメイキングのことを指すと思います.実はそこからミックスとマスタリングという作業を経てやっと一人前の音源に仕上がるのですが,DTM初心者だとそのことを知らずに物足りない思いをする人が多いと思います.自分もそうでした.
そして,そのミックスという作業をやらねばならないということを知ってからDTMerはミックス沼にハマるのです.DTMという深い深い沼の中に更にミックスという底なしの深淵が潜んでいるのです.引き返すなら今のうちですよ!!
音圧戦争自体については別の記事で書くとして,ミックス沼にハマった人間が最初にする行動はWavesのプラグインを買うことです.バンドルを買う前にちょこちょこと買ったりしていましたが,最終的にWaves Horizonを買いました.
それまではCubase付属のCompとかEQとかを頑張って使ってミックスしていましたが,Wavesを使いだしてからクオリティと作業効率がまぁまぁアップしました.ちなみにミックス沼にハマった人間がWavesのプラグインを買ったあとにする行動は,そのプラグインの解説動画をSleepfreaksのYoutubeで見るというものです.Sleepfreaksさんいつもありがとうございます.
そしてマスタリングを楽したいという思いからiZotope Ozone 9も買いました.
これはAIが波形を読み取って自動的にマスタリングのFXチェーンを組んでくれるというもので,自分みたいなマスタリングクソ雑魚勢にはとても助かる便利なソフトウェアです.
そして最後に,一番最近買ったソフトを紹介します.それがFabfilter Essentials Bundleです.
自分はこういうソフトを買うときは大体一番いいやつを頑張って買うのですが,今回は欲しかったのがEQとReverbだけだったので,最低限それが入っているバンドルでいいやと思いEssentials Bundleにしました.本当はサチュレーターも入ってるFX Bundleにしたかったのですが,高くてちょっと手が出なかったです.
現在地
今の自分の作業環境はこんな感じです.
Macbook Pro2015はMacbook Pro2020に変わり,モニターが増え,オーディオ・インターフェースはUR44Cに代替わりし,トラックボールとBluetoothキーボードを使い,コンデンサーマイクもAT4040に進化し,ヘッドホンもATH-M50xを使い…などなど,大幅に進化を遂げています.CubaseもCubase Pro 10.5にアップグレードしました.
ガジェットはすべて音楽のため,ソフトももちろん音楽のため.すべてはよりよい音源を作るためにカスタマイズされてきました.自分のバイト代や奨学金はほとんどがDTMのために消えていき,残った僅かなお金でごつ盛り塩焼きそばを食べる毎日です.
だけど私は声にマキシマイザーをかけて言いたい.私は今,幸せであると.
傍から聞けばその声がクリッピングしていたとしても,耳を劈くピーキーサウンドであったとしても,音楽にすべてをかけている今,だふやふはとても幸せです.
直接DTMに関わることだけでいうと
- Cubase Pro 8 (4.2) → 10.5 (1.8)
- Groove Agent 4 (1.1)
- Addictive Drums (1.0)
- BIAS FX 2 Elite (1.2)
- GARRITAN WORLD INSTRUMENTS (1.7)
- KOMPLETE SELECT 11 → 13 (5弱)
- Waves Horizon (3.3)
- Waves バラ買い (1.0)
- Fabfilter Essentials Bundle (2.4)
- Massive Presets / One-shotsなど (1.0)
- Ozone 9 (2.7)
- ボカキュー (1.2)
- 初音ミクV3 (1.8)
- 結月ゆかり凛 (0.8)
- Audio I/F: UR22mkII (1.6) → UR44C (3.4)
- Guitar: Gibson Les paul (7.6)
- Bass: FGN (3.2)
- Mic: AT2020 (1.0) → AT4040 (3.2)
- Headphone: ATH-M50x (1.9)
あとシールドとかピックとか教則本とか細々とした雑費も含めると60ぐらい行きます.
でも多分まだこれ少ないほうだろうな……これからも増え続けるだろうし.無常を感じる.
2020年に食べたラーメンの話
前回はラーメン以外の話をしましたが、今回は今年食べた(家系以外の)ラーメンについて話したいと思います。
らーめん楓
北海道味噌ラーメンのお店です。当時横浜駅の近くに住んでた同期のコーディエ(通称)から教えてもらいました。ドロッとした味噌のスープがもちもちの麺とうまく絡まり合って非常に美味しいです。学生サービスがあったり、そうでなくてもチケットをもらえたりします。お気に入りの味噌のお店です。
こっちは期間限定の背脂の方。これがマジで美味しかった。
町中華の肉絲麺
立石でしこたま飲んだ後シメに入った町中華で食べた肉絲麺(ロースーメン)です。簡単に言うとチンジャオロースーが上に乗っかってる醤油ラーメンです。お酒ゲロ弱なのに梅を3杯飲んでベロンベロンになりながらまだビール飲んでラーメン食ってるの、本当にバカ極まりないですが、このときちょうどテレビで相棒の再放送をやってて、数学者が犯人の回だったので妙に親近感がわいたのを覚えています。お会計をするときに鞄の中を見ると財布が見当たらず、うわーやった、どこかで落としたか…と思って落胆したのですが、普通に足元に落ちてました。それぐらいヘロヘロになってたということです。あ、味はもちろん美味しかったですよ。
天下一品
こってり系ラーメンの王道、天下一品です。わたしは3つ選べるやつのうち、中間の「屋台の味」が好きです。なんかずっとこってりを食べてたんですがチャーハンとの相性があんまりよくない気がして、でもあっさりを食べるのは何のために天一に行ってるのかわかんないので、そう考えると必然的に屋台の味が選ばれたわけです。これ奥にもうひとりいるのは同期のあかなお(通称)ですね。撮影場所が川崎市川崎区になってるんですが、なんで川崎まで行ってるんですかね(すっとぼけ)
ノリで青ネギトッピングしてみたらめちゃくちゃ美味かったです。多分これ正解なので皆さんも天一に行ったら青ネギトッピングやってみてください。
喜多方ラーメン
自粛期間前に卒業旅行に行ったときに福島で食べた喜多方ラーメンです。こうやってたくさんチャーシューが入ってる醤油ラーメンを喜多方ラーメンというらしいです。味としては、チャーシューがたくさん入っている醤油ラーメンの味でした。特に大きく感動することはなかったです。後日バイトで廃棄になるレンジアップの喜多方ラーメンを支給されたのですが、味が全く一緒でした。うーんこの
サンマーメン
横浜名物サンマーメンです。横浜といえば家系ラーメンのイメージがありますが、実はサンマーメンもあります。タンメンみたいな見た目ですが、簡単に言うとあんかけ醤油ラーメンですね。横浜に来てすぐの頃に一度サンマーメンにハマって、近所のサンマーメンの店に通っていたこともありましたが、今はもっぱら家系を食べる男になってしまいました。なので、これはめちゃくちゃ久しぶりに食べたサンマーメンです。
関内二郎
「汁なしのお客さん、ニンニク入れますか?」
「ニンニクアブラカラカラ、あとアレお願いします。」
らぁ麺田じま
渋谷ラーメンシリーズです。ひょんなことから渋谷に通うようになったのですが、そこで食べたラーメンです。しっとりとしたチャーシューが新食感で、メンマもすごく美味しかったです。すごく上品な醤油ラーメンでした。
春日亭
渋谷ラーメンシリーズその2。油そばってラーメンじゃないかも知れませんが、うるせえカスが(激ウマギャグ)。鶏豚油そば+焼きチーズトッピングです。濃厚〜〜〜うまし!!(春日だけに)ちなみにオードリー春日さんは本当に美味しい時は「うまし!」ではなく「うまいね〜うまい!」と二回繰り返して言うらしいですね。
関内二郎
「汁なしニラキムチのお客さん、ニンニク入れますか?」
「あー、ニンニクアブラカラカラで。」
麺場浜虎
名店・浜虎。あかなおに連れられて来ました。ラクロス部入ってた頃はちょくちょく行ってた気がするんですが、それからめっきり行かなくなって、めちゃくちゃ久しぶりに行って食べました。とても大きな鶏が入っていて食べごたえは抜群ですね。
ホープ軒
原宿に行ったとき、用事を済ませた後に色々原宿の街をさまよっていたら道に迷ってしまい、道中竹下通りでAfrican Americanのキャッチに引っかかって4千円のキャップと6千円のTシャツを買わされるという目に遭い、ほとほとしながら歩きに歩いてたどり着いたのが千駄ヶ谷のホープ軒です。マップで確認したら千駄ヶ谷まで来ていたので、せっかくなら将棋めし食ってこうかと思ったんですが、そこまで行くのはちょっと遠いなということだったので、適当に見つけたこのお店にしました。背脂が濃厚でしたがネギがフリーだったので乗っけまくって美味しく頂けました。その節はどうもありがとうございました。
これを食べながら漫才サミットのANNをずっと聞いていました。めっちゃ面白かったですね。特にツッチーとお兄ちゃんのフリートーク。
白樺山荘
横浜市立図書館へ行った帰り、新しく出来た横浜ハンマーヘッドへ寄ったときに食べたラーメンです。なんか海沿いでめっちゃきれいな建物でした。
ラーメン豚山
「ニンニク入れますか?」
「あー、ニンニクアブラカラカラで。」
この前ららぽーとでM-1の準決勝見に行ったときに(ご飯おかわり無料に釣られて)適当に入った定食屋さんで出てきたのがこれ。
いや生姜焼き2枚!揚げ浸しも少ねぇ!!
私がラーメンをよく食べるのは、こういったリスクを回避するという理由もあるのかなと思いました。ラーメンで量的に満足できなかったことはあんまりないし、質的にもそんなにがっかりした経験がなく、安定を求めるがゆえにラーメンに落ち着いているのかも知れません。
ということで今年食べた家系以外のラーメンでした。実際にはもう少し食べてますが記憶に残っていないのは除いてます(海老名のいろはとか)。次回はいよいよ本番の「家系ラーメン」についてです。
2020年に食べたものの話
2020年に食べたものの話をします。(ラーメンを除く)
ブリ
19-20の年末年始に帰省してたときに食べました。実家に帰ったらまた食べたいなと思うものの1つです。
ブリについて小話をひとつ。2015年3月、当時大学1年だった私は大学の友人とともに富山に旅行に来ました。北陸新幹線開業まで1週間を切っていたある大雪の日、私たちは高速バスで富山へ行き、富山から電車で氷見へ向かいました。電車を降りてひみ番屋街(道の駅みたいなところ)へ歩く途中も強い風と雪が私たちの体に吹き付け、靴の中はもうびしょびしょです。やっとの思いでひみ番屋街へたどり着き、生鮮食品売り場でぶりの寿司を買ってみんなで一つずつ食べたのですが、なんとそのブリ、徳島県産だったのです…。私の手前、大学の友人たちはおいしいと言ってくれましたが、今でも時々思い出しては悲しい気持ちになります。
ビリヤニ
ビリヤニはインド・ネパールのご飯で、世界三大炊き込みご飯のうちのひとつです。実際にはビリヤニは「炊き込みご飯」ではなく、炊きあがったご飯をスパイスや具材で調理したソースに混ぜ込んだものを言います。ナツメグ、シナモン、パクチーなどのスパイスや香草が入っており、ナッツなどが入っていることもあります。また、チキンビリヤニ、マトンビリヤニなど種類は豊富で、各地域によって個性があるのも特徴です。私は今日ヤバイ奴に会ったというYoutuberが上げているインドの屋台の動画を見るのが好きで、その中でビリヤニという料理が紹介されていて、食べてみたいなと思っていました。富山に帰省したときに家族に連れて行ってもらったインドカレー屋さんでビリヤニがあったので食べてみたのですが、スパイスの複雑な味わいとそもそもの味の濃さが気に入り、以降インド料理やさんでよく食べるようになりました。
こっちのビリヤニはパクチーが入っておらず、和風なケチャップライスといった味わいで、日本人でも食べやすいようなアレンジがなされていました。とても美味しかったので皆さんもインド料理屋さんへ行かれた時はぜひお試しください。
みんみん
言わずと知れた宇都宮餃子の名店宇都宮みんみんです。自粛期間前に卒業旅行をしたのですが、福島のさざえ堂、白虎隊、喜多方らーめんなどの後、夜に宇都宮みんみんで餃子を食べました。揚餃子と水餃子もあったのですが、私はやっぱり焼きにしか興味がないので、焼き餃子だけしこたま食べました。美味しいし安かったのでめちゃくちゃ満足できました。
宇ち多゛
ニコニコの「長火鉢とおっさん」シリーズで宇ち多゛(うちだ)というお店を知りました。もともとホルモンがすごい好きなので興味があったのですがなかなか行く機会がなく、行ってみたいな〜と思っていました。そんな2月のある日、修士の論文発表が終わり修士課程修了の全作業が終わったお祝いとして、京成立石まで1時間半ほど電車に揺られて宇ち多゛へ向かいました。
このお店には独特のルールがあり、もし行かれるのであればちゃんと調べてから行ったほうが良いです。下調べはしていたので私はとくにミスすることはありませんでした。飲んでいるのは焼酎の梅割りです。キンミヤ焼酎に梅シロップを少し垂らしただけの、まさにアルコール(直球)って感じのお酒です。これ3杯飲んでベロベロになりました。次行くときは2杯で良いかなと思いました。でも、めっちゃ美味しいです、もつにめちゃくちゃよく合います。私が食べたのは
です。タン生は実際には茹でてあります、当たり前ですが。パシャパシャ撮るのも粋じゃない気がしてあまり写真は撮ってないですが、全部めっちゃ美味しかったです。また行きたいなと強く強く思ってます。
イケアのカレー
研究室の家具を買いに行って以来イケアにハマり続けており、暇な休日はイケアに行って家具の展示を見て何も買わずにレストランでカレーを食べて帰るのが趣味になりました。そんなカレー。値段はなんと299円(税別)で、大盛りにしても399円(税別)です。イケアに行くと毎回「今日はカレー以外のやつも食べてみようかな〜」と思うのですが、結局「野菜カレー大盛りで!」と注文してしまいます、そんな謎の魔力があります。この値段でこのクオリティーのカレーが食べられるなら私にとっては十分です。
今人
知る人ぞ知るイセザキモールの中華料理店今人(イマジン)。黄金町にあるスタジオでの練習帰りにバンドのメンバーで行ったのが最初で、かれこれ4年ほど前のことになります。サークルの追いコン(納会)でバンド演奏をするのが恒例行事になっているのですが、毎年その練習の時期になると今人に行きたくなります。私が注文するのは回鍋肉定食です。最初の何回かはいろいろなメニューを注文していたのですが、これが美味しいことが分かってからは毎回こればっかり頼んでいます。ごはんもおかずもとても量が多いしめちゃくちゃ美味しいしとても満足できます。
カニ
今年は20-21の年末年始は家族と話し合って富山に帰省するのはやめておくことになりました。そのZOOM会議中に、富山っぽいものが食べたいな〜という話をしていたところ、実家の祖母がカニを送ってくれました。身がぎっしりしまっていて、カニ味噌も濃厚でめちゃくちゃ美味しかったです。3杯も入っていましたがまだ1つしか食べられてないです。悪くならないうちに食べたいと思います。
オレンジジュース
渋谷のカフェで飲みました。ちょうど姉が東京に遊びに来ていて、飯食った後に適当にカフェに入ったんですがメニュー見て卒倒しました。なんとこのオレジュー、一杯1050円。まぁ今まで飲んだオレジューの中でダントツにうまかったんで良かったんですが、他のメニューも高すぎてマジでビビりました。富山出身の田舎者2人が東京で痛い目にあったという話です。
以上、2020年に食べたものの話でした。次回は2020年に食べたラーメンの話をしようと思います。
数学を学ぶことで人は寛容になれる(はず)という話
数学を学ぶ理由は最も多く議論が交わされてきた対象の一つである。中学高校時代に半ば強制的に数学を勉強させられ、こんなことが将来何の役に立つのかと疑問に思った人は決して少なくないと思われる。教師や大学教員は声高に「数学の知識は身の回りに様々なことに応用されている」と叫ぶが、そんなことを任意の人生の大切な時間を浪費する理由にしてはならない。
数学を学習する理由の一つは論理的思考力の養成であるが、こんなことは今までも多く主張されてきたことであるので、私が今更ここでわざわざブログに書くことはしない。私が言いたいのは数学を学習することで他人に寛容になる精神を育めるということである。
数学が他の学問とはっきりと違うことは真の意味で正解が一つしか無いことである。ここで様々な反例について考察する。
世界史や地理と言った社会科学も正解は一つしか無いと考えることができるかもしれないが、それらの学問における正解とは厳密には正解ではなく正解とされているもののことである。人類がその歴史の中で正解に近そうなものに後から名前を付けて正解として保存している、言わば人間社会の恣意的な部分がその多くを占めている。一方で数学は基本的に正しいとされているものは(現代の一般的な数学においては)ZFC公理系のみであり、それと一階述語論理の重なり合った推論を用いて数学は記述されている。つまり、そのルールに違反しているものはすべて一様に間違いであり、そこに人間の恣意的な部分が入り込む余地は全く残されていない。「正しそう」「多くの人に支持されている」などといったものは厳密には数学には存在せず、そこには「正しい」と「間違い」しかない。
そういった二元的かつ形式的な存在に依って正確性が担保されているいくつかの自然科学もまた、正しさは一通りしかないように思われる。しかしながら自然科学は倫理学や哲学といったものと深く関連性を持ち、必ずしも人間の恣意的な部分が除外されているとは言い難い。いわゆる優生思想や人体実験、あるいは核兵器など、純粋な科学だけでは語ることのできない分野は枚挙に暇がない。私はそれらのそういった状況が悪いということを言いたいわけではないことをここに注意しておく。
学問に限らずに話を広げると、ルールが画一されているという点ではスポーツ競技を思い浮かべることがあるかもしれない。例えばサッカーや野球は全世界でほとんど共通のルールで争われている。しかしながらその勝ち方やゲームの進め方はチームや各選手それぞれである。パスサッカー、カウンター狙い、機動力野球に重量級打線。そのどれもがスポーツのエンターテインメント性を高め、そういった差異がある状態こそがスポーツのコンテンツパワーを向上させている。麻雀に関してはルールさえ画一されていない上に絶対的な正しさを知ることは物理的に不可能である。
反例が過ぎた。要するにそれらの「正しさが一通りではない」事象たちに対して数学は正しさが常に唯一つに定まるという特異性を持っている。そして、このことをメタ的に理解することこそが最も重要なのである。「数学には正しさが一つしか無い」ことを理解できれば、数学ではないこの現実の世界には正しさが複数存在しうることを認知することができ、その結果人それぞれに正しさがあることを理解し、他者に対して寛容な精神を得ることができるのである。
「議論」とは何のために行うか、ということについてもここで書いておく。私は議論とはお互いに正義の定義を理解し合うために行うと考えている。二者以上の関係性において議論が発生する理由は表層での意見の対立の存在による。今、A および B の間で議論が発生していると仮定する。Aの思考フローは
というものであるとする。これはAの持つ正義である から端を欲し推論を重ね、最終的に という意見を持っている、という意味である。Bに対しても同様に
というように考える。今、議論が発生しているのは となるからである。これを解決する方法は、推論を一つずつ巻き戻していくことによってお互いに および を理解し合うことに他ならない。 や は他の命題とは異なりそれぞれが正義の定義であり、これ以上推論を巻き戻すことができない上、その正しさが揺らぐことは決してありえない(定義だから)。そこまで議論を巻き戻すことにより、「この人はこう考えているから、最終的にこういう意見になっているのか」ということを知ることができ、それをお互いに適用し合い、話し合いによって推論が分岐して
および
となって となれば議論の目的は達成されたと言える。また、結局わかりあえずに破綻したとしてもその根本の原因を理解し合うことができれば、それは建設的な議論だったと言えるはずである。
このように、人それぞれに正しさがあることを理解しなければ建設的な議論などというものを行うことは到底不可能であり、それを理解するのに数学は良い反面教師になりうる、ということである。結論としては、数学を学習することで逆説的にこの世界の異常さを知ることができ、それだけで他者に寛容になるための初歩の精神を手に入れることができるだけではなく、意見が対立したときにもその建設的な解決方法を保有することができるのである。
もし今数学を学ぶ理由がわからずに悩んでいる人がいるとしたら、あえて目を数学の外に向けることで、その意味を理解して豊かな人生を歩んでいくことができるかも知れない。いや、そうあってほしい。人それぞれに異なった正義の定義が存在し、その存在を互いに認め合うことで、人間社会はより成熟していくと思う。
それはそうと、ハルヒの新刊、やっぱり良いですね。やっぱり長門は俺の嫁。異論は絶対に認めない。
クリエイターは結局フォロワー数だという話
ある絵師のツイートがTLに流れてきた。具体的な言及は避けるが、大方このような内容だった。
フォロワー数が少ないから、という理由で仕事を断られました。
私はバズったツイートはコメント欄も見ることが多いのだが、見る前にしっかりと自分の意見を持ってから見るようにしている。その意見は後述するとして、当該ツイートには絵師を擁護するリプライが多く寄せられていた。中には「クライアントを教えてくれ、文句言ってやる」などといったものもあり、大体は『イラストではなくフォロワー数によって判断されたことに憤慨する』ものであった。
さて、前述の私の意見というのは「おっそうだな。」というものである。
私はクライアント側の人間ではないので、フォロワー数の多いクリエイターのほうがいい理由を商業性やその後の展開などに求めることはしない。そういったものよりもむしろそのクリエイターの作品に求めるのである。このSNS全盛の時代ではフォロワー数の多い人間がほとんどのケースで得をしている。もちろんクリエイターにあっても同様であり、同じクオリティの創作物を世に出してもフォロワー数の多いクリエイターの方が多くの人の目に届き、結果利益をより多く得ることができる。では、それはなぜか?
これもSNS全盛時代特有のことであるかもしれないが、基本的にはマス(大衆)に迎合できる人間がクリエイターとして大成する。クリエイティビティとは一見そのような概念とは相対する行為であるように思われるが、そんなものは微小で十分であり、マスにチャンネルをうまく合わせることの方が重要である、というか早く大成できる。フォロワー数とはマスからの認知度であるだけでなく、同時にマスへの理解度と貢献度を表す指標でもある。これは目に見える数字としてのフォロワー数だけでなく、その人の考え方に対する認知度としてのソフトな「follower」の規模として考えることもできる。故に、フォロワー数の多いクリエイターの創作物はマスへの訴求力があり、結果としてクリエイターの創作物がコミュニティに受け入れられる可能性が大きくなり、そのクリエイターは優秀であると結論づけることができるのである。
という正論はここまでにしておいて、私がこんなことについてわざわざブログに書くことにした大きな理由をここで書くことにする。それは、上述したクリエイターとフォロワー数の関係性ではなく、先のツイートに寄せられていたリプライについてである。
私も底辺クリエイターとして様々なものを創作してきた。そのどれもが時間をかけて丹精込めて作った自信作であったが、残念ながら客観的にヒットしたと言えるレベルまでは到達していない。より具体的に言えば私が作ったカバー楽曲の動画はどれもYoutubeで2桁しか再生されていない。私は楽曲の(歌唱力や演奏力などは除外した)音源としてのレベルは低いとは言えないと自負している。一方でお笑い芸人がネタとして作ったであろうヘッタクッソなカバー音源が10万回以上再生されており、そういうのを見ると、コンテンツとは何をやるかじゃなくて誰がやるかなんだな、と何度も認識するのである。だからこそ、手数を増やして様々なものに挑戦することに依ってフォロワー数を増やし、「誰がやるか」の対象になる努力をしなければならない。もちろん本心では人格(フォロワー数)ではなく作品で評価してほしいと強く思っているが、そのような願いは時代遅れであり、おごりとも言うべき、マスに対しての横柄な態度なのではないかとさえ最近では考えている。
そんな中で最初のツイートに戻る。「おっそうだな」と思ったあとにリプライ欄を見ると、そのツイート主をフォローするリプライが多く寄せられていた。私はそれを見て
「いや、どっちなんだよ!!!」
と声を出してしまった。マスは何をやるかではなく誰がやるかを行動原理としており、その結果人格と作品は強く結びついていると潜在的に考えているものだと思っていた。しかしながら現実的に発せられたのは人格と作品を区別して評価するべきというものであった。私はそのリプライを見て、今まで私がしてきたフォロワーを増やす努力が否定された気がして少し悲しい気持ちになった。それと同時にそのようなリプライを寄せた人間たちに対する怒りも芽生えてきた。
普段我々が目にしている創作物は、たいてい「フォロワー数」の多い人間の創作物である。このフォロワー数とは先程も書いたとおりソフトな意味も含んでいる。要するに、多くの人間は上辺では人格と作品は区別して評価するべきと考えているにも関わらず、そのような人間が摂取しているコンテンツは人格と区別して作品だけを見て選ばれた作品ではないということである。そんな人間たちが何も労せず厳選されたコンテンツを消費し、そのことを自覚せずに「人格と作品は区別して評価するべき」などと宣うのを見て、私は真に悲しくなったし、底知れぬ怒りが沸き立った。ふざけんなよクソが。
ハッシュタグや質問箱で遊び、他の絵師とイチャイチャして、そんなのの何が楽しいんだ。作品は人格と区別して評価されなければならない。以前までそう考えていたけれど、それらはこの時代においては作品を作ることよりも重要であるかもしれない。私にとって非常に受け入れがたい事実をなんとか心に押し込めようとしていた私に対して、上述のリプライ欄は非情にも私を混乱させ憤怒させるものであった。そして私はまた正解を失い、露頭に迷い続けている。
でも、それでも、やっぱり、「人格と作品を区別して評価して」ほしい。本質を見て判断してほしい。少なくとも自分はそうする。そう思うのは卑怯なことだと分かっていても。
フォロワー数がたくさんいる状態でこのような文章を書くのは棘が立つ気がして、今のうちに書いて置かなければならないと思いブログを更新した。それと、D4DJの5話を見てて大鳴門むにというキャラクターが「私のVJが評価され、最終的に私自身が評価されたい」と言っているのを聞いて、それはあまり考えたことのなかった発想だと思ったので、それも付け足しておく。
というのも、私が前半で書いていたのは
「人格」→「作品」
という話であり、私はこうじゃなくて
→ 「作品」
であってほしかった、ということを書いていた。それが、彼女に言わせれば
「作品」→「人格」
というのである。これはなかなか、クリエイターには思いつきづらい発想なのではないかと思う。もしかしたら、こういう発想ができる人間がこのSNS全盛時代をうまく渡っていけるのかもしれない。知らんけど。
なんかよくわかんないと思うけど、
- クリエイターの作品はフォロワー数である程度評価できる。
- だからフォロワー数(人格)で判断するのは間違いではないよ。
- それに対して文句言ってんじゃねぇカスが、お前ら普段そうしてんだろ。
- その批判自体はわからんでもないねん。ワイも作品と人格は分けて考えてほしいわ。
というのがこの記事のアウトライン。どうせこんなフォロワー数の少ない人間の記事なんて誰も読まねーと思うけど。
ラーメンと麻雀とライプニッツ係数
1
その日はコンビニの準夜勤バイトがある日だった。準夜勤というのはその名の通り夜勤に準ずる業務形態であり、私の勤務している店舗では22時から翌1時30分までの3時間半が準夜勤に当たる。もっとも私のバイト先のコンビニは24時閉店であり、そもそも夜勤というものが存在しない。そのため準夜勤がクロージングにかかるすべての作業を担う。
その日も私は閉店間際に来た雑誌の品出しをしていた。ちょうど半沢直樹のセカンドシーズンが連日話題になっていた時期であり、タイムラインやマスメディアが半沢語録で溢れていたのだが、かくいう私も雑誌の品出し中にその半沢語録を目にすることになる。というのも、「誰が読むんだよこれ」と品出し時毎回思う『本当にあった笑える話』だかなんだかいうよくわからないオムニバス形式の漫画雑誌が届いており、品出し中にその表紙を見たのだが、『皆さんからの倍返し体験集めました!』というタイトルがデカデカと書いてあり、おそらく堺雅人さんであろう似顔絵のイラストが横に添えられていた。しかし、その堺雅人さんのイラストが髪の分け目をピシッとさせて人差し指をピンと上に立てているものであり、「いや半沢じゃなくてリーガルハイじゃねーか!」と心のなかでツッコんでしまった。
仕事を終えた私は原付で家に帰り、もらってきた食事補助の中華丼を食べながらジャルジャルタワーを見て、その後雀魂を打ち始めた。その日はまぁことごとく和了れず、振り込みもせず、なにもできないまま0-0-2-2とかで終わった。時間はもうすでに4時を回っていた。前に数学系のイベントで知り合った方が『J-POP、午前4時に思いを馳せがち』とツイートしていたが、事実としてそういう歌詞はたくさんあるし、午前4時という夜とも朝とも定義しがたい、思想の同値類に依存する微妙な対象に思慮を深くすることは自然なことのように思われる。その時の私も、麻雀で負けたことによるやり場のない苛立ちと無為に夜を更かした罪悪感、そして何者にもなれずただ毎日を消化する自分に対する劣等感が渦を巻いて私の感情を締め付けては、その苦しみから解放されるには第一に行動せよと私の理性が私の脳裏の上でクラッカーを鳴らして囃し立てている。
2
「寿々喜家って美味しいですよね!」
バイト中、後輩からそう話しかけられた。ちょうど、今住んでいる辺りに飯屋さんがないという類の話をしていたとき、家系ラーメンの話題に移り、冒頭の寿々喜家の話になった。寿々喜家というのは相鉄線上星川駅徒歩5-10分ぐらいの場所にある家系ラーメンのお店である。私が上星川に住んでいたとき、私は寿々喜家に通い詰めていた。その当時はフル夜勤をしていてお金もまぁまぁあったので、今日何を食べようか、と迷ったときは、家から徒歩3分という近さも因子となり、だいたい寿々喜家に行くことにしていた。そもそも寿々喜家は私が家系ラーメンというものを意識して食べ始めた最初のそれであり、現在でもそれは最上の家系ラーメンでもある。私は家系ラーメンを食べるときは硬め濃いめ多めを頼むことにしているのだが、これは行ったことのないお店に初めて入るときもこのルールは適用される。なぜかといえば硬め濃いめ多めが私の中のスタンダードであるからであり、その基準に対して鶏油の層のdepthや醤油と豚骨の比率、チャーシューの種類などの差異を判別していくのである。寿々喜家に通い詰めていた時から硬め濃いめ多めのみを頼み続けていたので、週一で通っていた頃は寿々喜家の店員さんに「硬め濃いめ多めですよね?」と向こうから聞いてきてくれるまでになっていた。それが寿々喜家のプロフェッショナルであり、私が寿々喜家を愛する理由でもある。
午前4時、まどろみさえ現れない冴えきった脳は私の体をラーメン屋へと向かわせた。今思うと相当評価値がバグってるのだが、無能感で満ちた私の思考フローがはじき出した最適解が「午前4時にラーメン屋に行く」というものだったのだから心底呆れる。呆れているからこそ、こうして言い訳を並べているのかもしれない。私はヒートテックのタイツを履いてからズボンを履き直し、原付にまたがった。これも相鉄線沿いなのだが、和田町に「どんとこい家」という家系ラーメンのお店がある。このお店の特徴はなんと行っても開店時間の早さであり、なんと朝の4時にお店が開く。私は夜通し作業した日などに朝方どんとこい家に行くことがあり、店はそこまで広くはないが時間も時間であるためそこまで混むこともなく、ラーメン自体の味も大変気に入っているので、近場のラーメン屋としては大変満足している。ここまで書けば、聡明な読者諸君にとっては、バイト先での会話で完全に家系の口になっていた私がどんとこい家に向かった根拠としては十分であるように思われる。
3
麻雀とはどのようなゲームかという問いに対する答えは、私のような凡才麻雀プレイヤーでさえ軽く5つほど思いつく。私個人としては、月次ではあるが、麻雀は押し引きのゲームであるように思う。牌理や牌効率といったものは絶対にマスターしなければならない至極基本的なものであり、その上で手を広げるか狭めるか、押すか引くかを選択していくゲームだと思っている。私の(師匠とも言うべき?)麻雀仲間の先輩はいつか「麻雀は4人でやるゲームだ」と言った。私はその言葉の意味を理解するのに半年以上かかったし、今でも完全に理解しているかは自信がない。麻雀が4人でやるゲームだというのは、ただ単純に4人に1人しか和了れないという意味に制限されない。4人がそれぞれ自分の利益を最大化するために行動し、捨て牌を以てコミュニケーションをとり、時には協力し、時には対立する。麻雀とは協調性のゲームであり、協調性のない人間は勝つことができない。自分の興味のある話しかせず、会話の文脈を共有せず縦軸から逸脱して我道を行こうとする人間は麻雀でもそういう打ち方をするし、当たり前のように負ける。麻雀はよくできたゲームで社会の縮図であるとも言われるが、私がその主張に賛成できるのは以上の理由からなる。要するに、ある程度4人で協調性を持ってプレイできなければ自分の利益を最大化することはできない。
長くなってしまったが、私はそういう意味では協調性はある方だと思う。会話とはキャッチボールであり、双方向の投げっぱなしではない。相手の立場や思考を予め想定し、実際の発言に対して受け身を取った上でリアクションを取る。このときのリアクションは独りよがりであってはならない。いや、あってはならないというのは私の価値観の上での話であった。私の定義する面白い会話というのは上述したような会話のことであり、お互いに自分の言いたいことを言い合うだけの会話が面白い会話であると定義している人間にとっては、私の言説は真ではない。
私はよく会話においてMCに回ることが多い。それは、私の創作の根幹にある「自分が魅力的な人間ではない」という絶望から端を発する「魅力的じゃない自分に興味がある人なんてだれもいないだろう」という当然の帰結と、「それなら会話するときは聞く側に回って会話を回そう」という諦めが私をそうさせているだけではない。私がMCに回る最大の理由は「そのほうが長期的スパンで見て自分の利益が最大化できる」と信じているからである。もちろん短期的には、自分の言いたいことを言えればそれで満足できるので精神的幸福度という利益を得ることができるだろう。しかし、それはあくまで短期的な利益であり、平易な言葉で厳しく言うと、それはその場限りの幸せである。会話はお互いに相手の思想を思いやり深い場所までラリーを続けていくことによって、純粋に知らない知識を得ることができたり、相手の思考フローの特徴に気が付いたり、もっと簡単には「仲良く」なることができるはずである。それは人生という長い期間で考えると、少なくとも正の利益であることは疑う余地がない。「俺はこう思う」「私が知ってるのは…」に終始しない会話は人生を豊かにするはずだ。
4
最近私の麻雀の押し引きは引きに寄ってしまっている。麻雀におけるコミュニケーションが上手な人であれば、捨て牌という相手の主張を正しく読み取ってある程度は論理的に正しく押していくことができるのであろうが、私はそこまで上手ではないので、最低限和を乱さぬように、引くときは引くことにしている。だからこそ、それが100%正解であるとは到底思えないが、私の能力との兼ね合いで現状「利益を最大化できる」選択肢が「引き」になっているということである。
ただ、手牌に依ってはそんな自分でも押さなければならないときもある。私は賭け麻雀をしたことは一切無いのでよく分からないのだが、以下の内容は単純に一般的に言われていることだと考えていただきたい。例えば、以前ニュースで話題になっていたテンピンというレートでは1000点で100円に換算される。テンピンにおいて12000点の放銃は1200円の損失であり、一般的なルールではウマやオカというボーナスも加算されるため、もしその放銃でラスに落ちてしまえば、損失は5000円以上になることもある。もちろんそれは半荘単位のものであり、それが続けばもっと大きな損失を被ることも有り得る。学生ではテンサンやテンゴといった比較的軽めのレートが使用されることもあるが、それでも日に1万円近く負けることも無いわけではない。重ねていうが私は賭け麻雀をしたことは一切無いので、これはあくまで聞いた話である。
放銃するのが絶対的な悪だとは言わないが、やはりほとんどのケースにおいて放銃は半荘単位で大きなリスクを伴う。もし真の正のレートで打っている場合はそれは実際のお金の損失という結果として現れ、それは学生にとっては小さな事象では決して無い。そういう風に考えることで、またそういう風に考えてしまうことで、私のメーターは引きに振れていくのである。「もしテンサンで賭けていると仮定して、これを打ってピンピンロク振ったら半荘で1500円ぐらい持って行かれるのか…」などと考えて自分の手を諦めることなどはしばしある。これはあくまで仮定の話であり、私は賭け麻雀をしたことは一切無い。
5
その日の麻雀でも、私は基本的には引き気味に、無警戒な振り込みをさけるように慎重に打っていた。しかし、逆連帯(3,4着のこと)が続いていた最終半荘でそこそこ高い手が入ってしまったので、点数状況的にも行かざるを得ない局面で親リーに対してガンガン押すことにした。最終的にその局は親リーのツモアガリによって決着するのだが、もし私がレート戦で同じ状況にあったときに今の手を押したかどうかは甚だ疑問である。上述の通り麻雀において「押し」は非常に大きなリスクを孕んでいる。親に支払う点数は子の1.5倍であるため件の行為はさらに危険度も高く、相当のリターンが期待できない状況でないと押すことが有効であると言い切れない。世俗的な表現をするならば、押しに依って1200円の損失を被るリスクがあるが、同時に390円の利益を得る可能性もある、といった勘定である。なお、実際には先程も言ったとおりウマやオカといったボーナス、そして着順と局数の関係もあり、ただ単純に高い手だから良くて安い手だから悪いということではないことは十分理解しているが、実際の身に降りかかる損失に写像して考察してみると、押し引きにまつわる事の重大さを改めて認識することができるだろう。
晩秋の未明、不甲斐なさを引きずりながら原付に乗って大池道路を下る私の体に冷たい夜風が吹き付ける。凍えそうな私の体とは対照的に、暗闇の路傍に並び立つ無を照らす街灯は季節という概念を持たない。歩行者のいない午前4時に、供給される電力を徒に消費し続ける無個性な機械を見て、私はこの世界の豊かさに少しだけ気付いて、同時に少しだけ嫌いになった。
16号線付近の交差点、信号は赤。私は原付に乗りながらその信号に気付いたので減速をする準備に入った。しかしながら、一般的に午前4時の交通量は無視できるほど小さく、それはこの大都会横浜にあっても同じことである。私はふと、一瞬だけ、この信号を無視して交差点を進んでみようかと考えた。こちら側の信号は赤であり、垂直方向の信号は青である。つまりこの信号を無視して交差点に進んだ場合は垂直方向の交通と衝突するリスクがある。しかし、もし衝突が発生しなかった場合はより早くラーメン屋に行くことができる。闇夜の下、原付に跨りながら奇しくも私に再度「押し引き」の選択が発生した。
6
これは一般常識的には「引き」一択である。交通法規的にも一般の倫理的にも信号無視はしてはいけないことであり、免許を交付されている人間に必ず備わっていなければならない必要最低限の素質でもある。しかしながら、信号を無視するための推論が自分の中にはあったのだ。まず一つ目としては交通量、そして二つ目としては監視カメラや衆人環視が無いことである。もし私がもう少しひどい麻雀の負け方をしていたとしたら、それらの根拠から推論を帰結させて信号を無視していたかもしれない。幾分か理性を保っていた私は冷静に判断し、赤信号の前で原付を止めた。
すると次の瞬間、大型トラックが垂直方向の交通をフルスピードで駆け抜けていくのが目に入った。
7
先制テンパイから親リーが入り、「引き」を選択した私は手を崩して流局を迎えた。開かれた親の手牌を見て当たり牌を掴んでいたことを知り、押さなくてよかったと安堵した経験は少なくない。原付の上の私もまた、引きという選択によって損失を回避することができたのである。麻雀で、レートがあるなら相当の損失を被るであろう押しをガンガンにしていた私が、交差点という場所では押しの選択をしなかったのはなぜなのか。その選択は本当に正しかったのか、そんな疑問が私の中で発生した。もちろん結果だけ見るとそれは大正解だった。もしあの状況で押していれば最悪で死亡、最高でも大ケガは免れ得ないであろう。しかし結果論というのは本質的ではなく、どう考えどう判断してその選択に至ったかを論理的に示すことが重要なのである。麻雀動画のコメント欄では不毛な議論が交わされていることが多いが、この「論理的に説明する」ことが欠けており結果論だけで語る視聴者が多いことが一つの理由でもある。
つまり、私は「早くラーメン屋に行くことができる」というリターンと「死亡あるいは大ケガをする」というリスクの差し引きを正しく議論するための基準を持ち合わせていなかったのだ。世俗的に言えば、 今私が死亡するという行為は誰にとってどれぐらいマイナスが出るのか、ということを知りたかったのだ。もちろん倫理的には命に値段をつけることはできない。しかしながら司法的観点から議論すると、死亡や大ケガという状態は容易に金額に換算することができる。あるいはそうしなければ司法的手続きを進めることができないのだろう。私は自分の命の値段を調べることにした。
一般的に交通事故で死亡した場合、2000万円程度の慰謝料を請求できるようだ。倫理を除外して結果だけ考えると、加害者である運転手は遺族に対して2000万円を支払って被害者の命を買っているような換算である。つまり、もっとも簡単に言うと、私の生命はおおよそ2000万円であると言えるだろう。しかしもう少し調査をすすめると、私はある言葉を目にした。それこそがライプニッツ係数である。
8
ライプニッツといえば微分積分学を(ニュートンとは独立に)確立した人物として知られ、現在でも使用される という記法はライプニッツが考案したものとされている。私が初めてライプニッツの名前を認識したのは数学ではなく世界史であった。山川の一問一答で問題とされている程度には一般的に知られている数学者・科学者の一人である。一見純粋数学とは関係なさそうな社会科学の範疇にある慰謝料・損害賠償についての調査の中でライプニッツという単語はある種の特異点であるように感じられた。
利率を 、年数を とすると、ライプニッツ係数 は
と表される。ライプニッツ係数は一般に逸失利益を計算するために用いられるものである。もし、交通事故により死亡した場合、単純に慰謝料だけが支払われるのではなく、その被害者が生きていたとしたら得られたであろう利益(逸失利益)を加害者に対して損害賠償請求することができる。その逸失利益は以下の式で計算される。
基礎年収とはその名の通り計算の基準となる被害者の年収である。また、普通に生活していたするならば利益だけでなく生活するのにかかる費用も発生するため、その分を差し引くために生活費控除率というものを考える。そして、それに対して利率と年数に対応するライプニッツ係数をかけて逸失利益は計算される。
9
もし年収500万円の54歳の男性が交通事故で死亡したとする。定年が65歳であり被扶養者が1人の一家の支柱(生活費控除率が30%)であるとすると、
となり、1650万円を損害賠償として請求できそうである。これは、年収500万円を11年間受け取った5500万円のうち、70%は生活費に回るので純粋な利益としてはその30%の1650万円がもらえると考える。しかし、収入というのは将来に渡ってもらい続けるものであり、それを一括で得ることができたのであれば、その金額を預貯金することにより利益が発生し、将来に渡ってもらい続けるよりも利益が大きくなってしまう。このような利益を差し引いて考えるために、ライプニッツ係数を考える。法定利率 3% において11年間のライプニッツ係数はPythonで計算すると
>>> def leibniz(p, n): ... sum = 0 ... for i in range(n): ... sum += 1 / (1 + p)**(1 + i) ... return sum ... >>> leibniz(0.03, 11) 9.25262411337459
となり、
であることがわかる。実際、三井住友海上火災保険株式会社のPDFの表を見ると、利率3%年数11のライプニッツ係数は9.253と近似されている。つまり、当該人物の逸失利益は
となる。これは単純に計算した1650万円よりも少ない額となっているが、これはお金を持っているだけで利益が出るという特性を考えれば公平であろう。
10
そんなことを考えながら、私はどんとこい家でラーメンを啜っていた。私がいつも頼むのは昼めしセット(ごはん+煮玉子のり5枚)にねぎMixトッピング。作りはもちろん固め濃いめ多めである。私は押し引きの選択を間違えず、その結果このラーメンにありつけている。自分の命を2000万円だとすると、2000万円損するリスクとラーメンを早く食べることができるリターンの選択は、圧倒的にリスク回避という選択肢が正しい。ここまで考えてやっと、客観的に納得できる推論を行うことができた。私はそのことに満足して、赤い顔でラーメンを貪り食った。海苔に載せたおろしにんにくをスープに溶かし、それをご飯に乗せて食べるのがここ数年の一番の幸せと言っても過言ではない。そんな身近で低俗な幸福感を得ただけのことであってさえ、押し引きを間違えなかった恩恵と言うにふさわしい。
ある日私は麻雀でボロクソに負けた。その日はどんな選択をしても裏目裏目を引き、朝になった頃には、麻雀以外での任意の選択に対して私は全く自信を持てなくなってしまった。スマホにはツイート通知が届き、陽の当たる人間たちの虚像とそれらへの追従者、行動する人々の雄弁を見せつけようとしてくる。私にはそれらの人々が私に対して、「私たちは選択を間違えなかったよ!」と言っているように思え、その声は私の網膜に私の実像を射影した。国語が得意で数学が苦手だった自分が数学科に進学した選択、部活を半年でやめた選択、就活をやめて博士課程に進学した選択。今までの人生の中で私は幾度となく大きな選択を行ってきた。今の自分には、それらの選択がすべて正しかったと言い切るに足る確証が無い。あまりにも、無い。
いつか、そんな自分に「あの選択は正しかった」と言ってあげられる日がくるのであろうか。そしてこれからも、選択を迫られたときに論理的に正しく選択を行い、推論でその根拠を示すことができるのだろうか。正しい選択をしたと自分が思える経験があまりにも無いから、今後も失敗し続けるのではないかとも考えてしまっていた。その日私はツイッターのアカウントを消そうとさえ思っていたが、そのことを師匠の先輩に話すと、それはやめておけと言われた。私は選択をすることが怖かったので素直に先輩の言葉に従い、アカウントを消すことはなかった。 今になって、とても小さなことだけれど、その選択は正しかったのではないかと思う。もちろん今でもそういった劣等感は拭いきれていない。それでも、あのときツイッターをやめなかったことは自分に対してプラスの利益を与えていると考えられる。それは、私の創作物がある程度人の目に触れていることが根拠となる。そんな些細なことでさえ、選択を間違えてばかりの私にとっては貴重な経験である。
家に帰ってきた私は胃薬を飲んで歯を磨いてソファーベッドに横になった。私の胃袋はもう、ラーメンとごはんを押し込むには小さすぎるらしい。最近は家系ラーメンを食べると毎回こうなってしまうので、硬め濃いめ多め、あるいはライスといった選択は間違いなのかもしれない。それはとても悲しいことだなと考えながらも、私はまた、間違った選択を繰り返すのである。