愛想モルフィズム

I saw what I am

冬のカーネル・シータ (後編)

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 ゼミを終えた私は研究室に戻り、再び絶望と向き合うことにした。窓に刺す西陽のオレンジ色は衝立に遮られて私の机には届かない。冬の澄み切った大気が雄大な富士山の影を無数の建造物の上に映し出すのがとても美しい。形式的な記号の渦に飲み込まれながら、足りない何かを必死に追い求める間、私は私自身の存在やその苦悩を忘れることができた。人格という概念が存在しない空虚で稠密な空間である数学の中にいる私は、もはや私ではなかった。闇雲に筆を持つものの糸口を見つけられない私は、友人からのラインの通知で既に八時を回っていることを知り、再び私は地球に呼び戻された。返信をそこそこに済ますと、西門のローソンへ夕食を買いに行くことにした。  

 

 ローソンへ向かう途中、私は図書館の前で例の手袋に再会した。スポットライトのような赤橙色の街灯に照らされたぎこちない一組の手袋は、私が昼前に見た姿と全く同型のままであり、暗闇の中にあって誰もその存在に気付かない今となっては、余計にその非特異性が増していた。しかしこの類まれなる非特異性を唯一知る私にとって、その一組の手袋に何かが足りないことを悟るまでに、そう長い時間は掛からなかった。卒業論文の締め切りの足音が近付きつつある中で新しい課題に直面しては精神的余裕が極限まで損なわれてしまうので、やはりその場からそそくさと逃避する他、私に出来る行為は存在しなかった。


 数学は結果こそ最も重要な関心であるが、しばしその結果を得た過程に注目が置かれることがある。真実を告白すると、私はそういう、ある種の非数学的なモチベーションが苦手である。なぜならば、学問としての数学のアイデンティティは厳密な公理系から導かれる偽りなき計算と推論にあり、人間の情動的な操作が決して及ぶことのない自然を超越した思考であると信じているからだ。任意の人間に対して任意の表現が存在する、あるいはその存在を権利として認める以上、クリティカルとは限らないアイディアや手法に興味が向けられることを良しとするべきでは無い、と私は考えている。以上を踏まえて弁明すると、私は既に前述の主張を解決したが、その証明に至るまでの発想やアイディアを述べることはしない。

Claim: 環準同型

 \theta : k \left[ Z_{00}, Z_{01}, Z_{02}, Z_{10}, Z_{11}, Z_{12} \right] \to k \left[ X_0, X_1, Y_0, Y_1, Y_2 \right]

(ただし  \theta (Z_{ij}) = X_i Y_j )について,

 \mathrm{Ker}\ \theta = (Z_{00} Z_{11} - Z_{01} Z_{10},\ Z_{00} Z_{12} - Z_{02} Z_{10},\ Z_{01} Z_{12} - Z_{02} Z_{11})

である。

 まず,これは割り算であると言った.その言に一切の誤謬は存在しないのであって,有理数あるいは実数の割り算のように必ず割り切れるものではないが,その余りを求めるアルゴリズムを意味する.

 任意に  \mathrm{Ker} からとってきた  F

\begin{equation} F = \sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00}} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} Z_{11}^{e_{11}} Z_{12}^{e_{12}} \end{equation}

と表されるわけだが,これを  I で割る.つまり, I で剰余することによってそれと合同な多項式に変化させ,余りを計算する.例えば, g_1 = Z_{00} Z_{11} - Z_{01} Z_{10} とすると, Z_{00} Z_{11} の指数の大小関係で場合分けして

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と割れる.これを同様に繰り返し,添字を付け直すことで合計で6つに場合分けできるのだが,大事なことはこれらが全て良い性質を持っているということだ: つまり,添字が整列するということである.これ以降の内容について,私は既に3度に渡って初学者向けにまとめているので,先程も言ったとおりこのことについて解説を述べるモチベーションを有しない.要するに,先の誤りの含んだ解法から得られるイデアルが生成元を2つしか有さないのに対し,やはり正しくは生成元はこの3つであることがわかった.


 一通り証明を埋めることができた私はそれに満足するや否や研究室のソファで眠りこけて仕舞った。冬の日のカーネル・シータは意外にも容易く解れ、寒さが体の芯まで伝るのを感じ、今度は寝袋を持参するのが良いと悟った。強風の暖房を付けたまま床に就いた私は朝に目が覚めると酷く喉を痛めていた。不快感を押し込めつつ顔を洗いに流しへ向かうと寝間着の私に清掃員がお早うというのでお早う御座いますと返事した。清掃員は私が用事を済ませるのを確認すると、蛍光灯を付換るのを手伝って欲しいというので、特に断る事由も無いので応じることにした。しかしどうやら手伝うというよりかは任命の方が正しいようで、清掃員はその梱包を剥ぐのみで私が天井へ手を伸ばし蛍光灯を取り付けた。電気が付くことを確認した清掃員は有難う御座いますと軽く会釈し、はぁとこちらも会釈を返すと清掃員はすぐに下の階へ降りていった。私は不意に軽やかさを取り戻した心持がした。そして研究室に戻った。

 先の主張の証明に幾分かの補足を与えた私は、残りの作業を後日に回すとして帰宅することにした。今日はいつもの夜勤があるので、そういう日は家に帰って風呂に入り仮眠を取ることにしている。昼前に一通りの作業を終えた私は机の上を整頓し、寝間着から着替えて外套を羽織り、サンダルから靴に履き換えた私は伽藍堂の研究室を後にした。研究棟のエレベーターは閉まるのに大変時間がかかるが、孤独の中においてはそのがいつもよりも長く感じた。それはまるで何かを待っているが如く、口を大きく開けて誰かが施しをその中に加えるのを待っているようであった。下らない主張の下らない証明を示したという行為にさえ増長した思想が賞賛を欲しているのを感じた私は、大袈裟に噎せ返ることで自己嫌悪を掻き消そうとした。乾いた空気が充満した廊下に私の咳き込む声がこだまして聞こえたのを煩わしく思った。

 帰途についた私はまた例の手袋を見た。研究棟を出てから後は私の中にもはや数学は無く、普通の生活に戻っていた。例の手袋はやはりそこに鎮座していた。しかし、驚くことに、その手袋は私が昨日見たときから明らかに変化していた。実際、手袋自体にこれと言った変化が見受けられるわけではないが、組として見た時に明らかな差異が生じていた。それは、その不釣り合いでごく自然な一組の手袋の横にひとつの蜜柑が置かれていたことであった。正月飾りの定番である鏡餅の上に載せる橙の代用として、より一般的な果実である蜜柑が載せられることがあるが、それとは出現時期より外に全く性質の異なる蜜柑であった。誰が置いたか明らかでないそのひとつの果実は、例の一組の手袋に対してその特異性を復活させる方向に働きかけていた。つまり、その褐色の事象によって誰もが認識できる尖点へと、それらの手袋を変化させていたのである。それを見た私は、この手袋の運命を理解した実感を得た。それらの手袋から感じた不足という問へのひとつの解として、その蜜柑が提示されたのだった。私はその実感を得ると同時に、私自身の未熟さを改めて思い出させられた。

 研究室での打ち上げにおいて、教授はたこ焼きを  \mathbb{P}_2 と呼んだ。確かに、私達の作る不格好なたこ焼きは裏も表も分からない得体の知れない食べ物であるので球面というよりは射影平面と呼ぶのが正しいのかもしれない。しかし、自然は射影平面を作らない。ぎっしりと身の詰まった蜜柑は明らかに三次元球体であった。このユークリッド空間において蜜柑という対象が施した作用は手袋を再び私達の意識下へ帰させるものであり、特異点は解消されるどころか更にその特異性を増加させていた。曇り空に烏が鳴く音が吸い込まれ、人々はその不可思議な存在を傍目に足を動かし、やがてその記憶を無くしていくのだった。私もいつかこの質感を何処かへ捨ててしまうのかもしれない。いつか私も提示された命題に対して自力で解を与えることが出来るだろうか。そんなことを考えながら、私は門をくぐり、家路へ就くのであった。