冬のカーネル・シータ (前編)
先日帰化したばかりの友人が今朝の寒さを嘆くツイートをしているのを見た私は、行李から厚物の羽織りを取り出した。普段、原付で登校している私もこの頃の寒さには気が滅入るばかりで、そろそろ原付に乗るのも諦めるのが良いと感じていたところであった。朝、といってももう十一時をとうに過ぎていた頃、私は可燃ごみを片付けると先述のコートを羽織り、ブーツを履いて家を出た。今日は歩いて学校へ行く。
富山ではもう吹雪いているそうだ。乾いた端書は実家からの便りである。空色の視界に吐く息だけが白く濁って映るのを見て、私はこの横浜という街が少し嫌いになった。冷え切った風に晒した右手をポケットに差し込むと、中からどこかのレシートと右手袋が出てきた。これは昨年使っていた手袋で、暖かくなってコートを仕舞う時にポケットの中から出すのを忘れてしまい、そのまま一年間ポケットの中に入ったままになっていたということらしい。というのも、私の怠惰な性格から、手袋は所定の場所に片付けずに帰宅するとそのまま手袋を脱いでコートのポケットに入れてしまうようにしていたのだ。 左側のポケットをさぐれば左手の手袋が出てくると考えるのは自然な発想であるが、どういうわけか左ポケットは だった。ということで、私は一年ぶりに身に着けた羽織物から片方だけの手袋を得た。
黒地に灰色で雪の模様が入ったその右手袋はセブンイレブンで購入したもので、その当時は今になってセブンイレブンでアルバイトをするとは考えてもいなかったと思われるので、いやはや不思議な縁である。当該の手袋は付けたままスマートフォンを操作できる手袋であって、不思慮な私はぞんざいに扱っていたので、もう人差し指の先が千切れて腹が見えるようになってしまっていた。貧乏性が出て指先を縫い合わせたもの、使い方を改めないのですぐにまた破れてしまったのは言うまでもない。要するに、その右手だけの手袋は既に使い物にならないものであった。
付け加えて言えば、私はその手袋の存在すら忘却しており新しく手袋を購入していたので、まだ使用できる手袋が見つかったところで使ってはいなかっただろう。
(ただし )について,
である。
数週間に渡って私を苦しめているものがこの主張である。アルバイトの作業中にも小さな時間を見つけてはこの問題について考察を巡らせていた。なんとか証明に辿り着いたとしても説明不足だとしてリジェクトされ続けていたので、私としては、自分は理解していると勘違いしていただけなのではないかと不信の念を抱くに至り、主張を示せないことへの焦燥感と自らへの失望が幾度となく私の深層に像として埋め込まれるのを傍観する他無かった。この時も同様で、何か漠然とした向き付け不能な怒りが私を支配しているようで、学校への道を歩きながらその像と向き合い、数学をしていた。
坂を登りきって病院を抜けると程なくして学校へ到着した。昼の業間を埋めるが如く学生たちが大通りを往来するのを傍目に、私は木々のカーテンで陽の当たらない裏道を通って研究室へ向かった。常緑樹林は逞しく陽の光を受けて立ち、描かれる線形射影を踏んで歩く二三の足音だけが妙に耳についた。
理工学部の図書館の前で変わったものを見た。それは入口の横の木の台の上に置かれた一つの手袋であった。実際のところ、私は一度その前を通り過ぎていたのだが、この空間の中にただ一点、明らかに特異な対象として鎮座するそれを認識した途端、ふわりと宙に浮いた質感がこの世界に接続するのを実感した。そしてまたその実感こそ、この世界に手袋が少なくとも二つ存在することを示していた。
その手袋は私のポケットの中にある手袋とは自明に異質であった。というのは、台の上に置き去りにされていたその手袋は左右両用であることだ。均質的な黒色は他を入れ込む余地を残さず、解れなく整然と編み込まれた毛糸からはほとんど新品のように思われた。指の先に穴の空いた私の手袋とは、位相幾何学的にも全く別の物体であった。唯一つ、私の手袋と同じ性質を持つとすれば、それは片方だけしか無いということであった。
人が手を二つもつことと手袋が二つ組であることは同値である。なぜならば、手袋は外界の刺激から手を保護するための手続であって、逆にその手続は同型を除いて唯一つに定まるからだ。つまり、その行為の主体が私が持っているような毛糸の手袋と形状や外観が異なっていたとしても、本質的には日本語で「手袋」と述べられる物体と言えるからだ。要するに、この定義めいた命題を真と仮定すると、私の持っていた手袋は手袋とは言えず、台の上の手袋もまた手袋ではないことになってしまう。
そこで私はポケットの中から事象を取り出し、台の上に置いてみた。不釣り合いなそれらの手袋はその特異性を台に残したまま、何食わぬ顔で日常の中の元として振る舞い始めた。それはちょうど、イルミネーションに彩られた駅前を歩く身長差の大きな一組のカップルのように、片割れとの差異があたかも常識であるかのような自然な対をなしていた。私はそれに満足すると同時に後ろめたさを感じざるを得ず、その場から逃げるように立ち去った。
ゼミは散々だった。同じ内容を何週にも渡って説明することへの申し訳無さから途中式を省いたのがそもそもの誤りであった。厳密性を貴しとする指導教官が私の曖昧な証明を良しとするはずもなく、私の頭の中で示された、あるいは私がそう思い込んでいた数学は先端の弱い部分から解れ始め、論理は静寂と共に崩壊し、教授の指摘の下に私は剣を収めることとなった。私は負けた。「ぐうの音もでないほどの正論でねじ伏せないとだめだよ」という教授の正論に私はねじ伏せられたのだ。
つまるところ、これは割り算である。一般的な割り算と異なる点は、その目的物が数ではなく多項式であることだ。この一見して単純に思われるアルゴリズムに手を拱いて居るという事実こそ、私が私自身に失望する最大の理由とも言える。 実際のところ、今回のゼミで私は有意義な成果を得ていた。ただ、それが教授から発見的に提示された閃きであることが、私の能力の低さを再度露呈させたことは言うまでもない。
成果を得た、と言った。それはこういうアイディアである。
今,Claimの右辺を とする.つまり,
とする.言いたいことは であるが, はほとんど明らかである.なぜならば, の生成元は で送ると全て になるからだ.よって,このClaimの本質は という包含を示すことに有る.
まず, を任意に一つ取ってくる.この時, が斉次成分を保つ写像であるので, は斉次元であるとして良い.この が に入っていることが言えれば,主張は示される. は多項式環 の元であることに注意して,
\begin{equation} F = \sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00}} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} Z_{11}^{e_{11}} Z_{12}^{e_{12}} \end{equation}
と表せる.これを で割るのだが,割る前に を十分大きく掛けるという操作を施す.すると,
\begin{align} Z_{00}^l F &= \sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00} + l} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} Z_{11}^{e_{11}} Z_{12}^{e_{12}} \\ &=\sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00}} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} ( Z_{00}^{l_1} Z_{11}^{e_{11}} ) (Z_{00}^{l_2} Z_{12}^{e_{12}}) \end{align}
となる(ただし, と考える).ここで,本題の割り算に入るが,単項式の後ろの括弧の部分に注目すると, は十分大きく取っているので,一つ目の括弧については の次数 は の次数 以上であり,二つ目の括弧についても同様に の次数 は の次数 以上である.この状態で で割る,つまりファジーな言い方をすれば,強制的に であるなどと考えると,単項式の中で と が同時に出てくる,つまり両方の変数の次数が1以上になる部分では と といった別の変数に置き換わるということになるのだが,今の条件より の次数 は の次数 以上なので, で割ると必ず という変数が消え, の3つの変数に減らすことができる.例えば,
という単項式は で割ると,
\begin{align} Z_{00}^4 Z_{01}^3 Z_{10}^2 Z_{11} + I &= Z_{00}^3 Z_{01}^3 Z_{10}^2 \times (Z_{00} Z_{11})^1 + I\\ &= Z_{00}^3 Z_{01}^3 Z_{10}^2 \times (Z_{01} Z_{10})^1 + I\\ &= Z_{00}^3 Z_{01}^4 Z_{10}^3 + I \end{align}
となり,最初に4つあった変数は割り算の結果3つに減っている.
簡単に言えば,このようなアルゴリズムを通して変数を減らし,その状態で で送ると式が単純化されるだろうという発想である.これを元の に適用すると,
\begin{align} Z_{00}^l F + I &=\sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00}} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} ( Z_{00}^{l_1} Z_{11}^{e_{11}} ) (Z_{00}^{l_2} Z_{12}^{e_{12}}) + I\\ &= \sum a_{e_{00} e_{01} e_{02} e_{10} e_{11} e_{12}} Z_{00}^{e_{00}} Z_{01}^{e_{01}} Z_{02}^{e_{02}} Z_{10}^{e_{10}} ( Z_{00}^{l_1 - e_{11}} Z_{01}^{e_{11}} Z_{10}^{e_{11}}) (Z_{00}^{l_2 -e_{12}} Z_{02}^{e_{12}} Z_{10}^{e_{12}}) + I\\ &= \sum b_{d_{00} d_{01} d_{02} d_{10}} Z_{00}^{d_{00}} Z_{01}^{d_{01}} Z_{02}^{d_{02}} Z_{10}^{d_{10}} + I \end{align}
となり, で割ると変数が6つから4つに減らすことが出来る.(係数の は を上手い具合に揃えて添字を付け替えていると考える.)
さて,これを で送るとどうなるか.
\begin{align} \theta(Z_{00}^l F + I) &= \sum b_{d_{00} d_{01} d_{02} d_{10}} (X_0 Y_0)^{d_{00}} (X_0 Y_1)^{d_{01}} (X_0 Y_2)^{d_{02}} (X_1 Y_0)^{d_{10}}\\ &= \sum b_{d_{00} d_{01} d_{02} d_{10}} X_0^{d_{00} + d_{01} + d_{02}} X_1^{d_{10}} Y_0^{d_{00}} Y_1^{d_{01}} Y_2^{d_{02}} \end{align}
となる.ここで,シグマの中で がそれぞれ動く時,5つある変数の次数はそれぞれ単独に動いている.つまり,シグマの中に同じ単項式が出てこないということを表している.
一方で, が環準同型であることに注意して,
となるが, は既に示しているので, である.よって,
であるが,仮定より としているので,結局のところ
である.
以上より,
\begin{align} \theta(Z_{00}^l F + I) &= \sum b_{d_{00} d_{01} d_{02} d_{10}} X_0^{d_{00} + d_{01} + d_{02}} X_1^{d_{10}} Y_0^{d_{00}} Y_1^{d_{01}} Y_2^{d_{02}}\\ &= 0 \end{align}
となるが,先述の通り,シグマの中に同じ単項式が出てこないので,多項式として になるためには係数が全て にならなければならない.従って を得る.ただ,これは上手い具合に の添字を付け替えているものであって,本質的には と等価である.実際,よって最終的に
を得る.実際, を元の式に代入して で割る前の形に戻すと上の式を得る.
従って, より を得る.ここで, が素イデアルであることを示せれば, あるいは となる.前者の場合,
\begin{align} Z_{00}^l \in I &\Rightarrow Z_{00} \in \sqrt{I}\\ &\Rightarrow Z_{00} \in I \quad (\because I\ \mathrm{is}\ \mathrm{prime.}) \end{align}
となり, の生成元の次数が なので が に入らないことは明らかなので矛盾している.よって が示される.よって逆の包含が言えたので,晴れて証明終了となる.
しかし,この考え方には致命的な問題があった.それは,厳密には で割っているのではなく,
という別のイデアルで割っていると言えるからだ.つまり,帰結として となるが,これはハーツホーンの本文の言及と異なる.発想が正を向いているとしても,その論理に厳密性を欠いたならば,それはもはや数学ではない.つまり,私が連々と述べた大半の数式と言語は,子供の頃砂場に絵を書いて遊んだ夕景と実質的に何も変わらない,ただの生活に過ぎないのである.